ディアナ号の大砲 その3

以前、沈没したディアナ号の大砲がどうなったのか調べたことがあった。

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奈木盛雄『駿河湾に沈んだディアナ号』(2005年)によれば、先行研究には以下のものがあり、内容も詳しく紹介している。

①肥田喜左衛門 「下田帖43号」(平成10年)

②斉藤利生「露艦ディアナ号の遭難とその備砲」(防衛大学校紀要44輯、昭和57年3月」

③斉藤利生「再び靖国神社の三十二ポンド砲について」(銃砲史研究、昭和58年4月)

④斉藤利生「横浜の二門の洋砲」(防衛大学校紀要第53号、昭和61年9月)

⑤斉藤利生「横須賀の二門のオランダ海軍砲」(兵器と技術、昭和63年9月)

⑥北澤法隆『ロシア海軍雑誌「モルスコイ・ズボルコフ」のスクーナー「ヘダ」建造関連記事について』

⑦北澤法隆「ディアナ号大砲の所見」(奈木盛雄宛書簡)

⑧尾形征己「横浜にあるロシアの大砲の検証」(下田郷土史研究会、2003年9月)

⑨クザーノフ「横浜の大砲の見解」(奈木盛雄宛書簡)

特に重要なのは、

1)出発点である『海軍歴史』での勝海舟の大砲の記述、

    鉄製60斤長加農    4挺

    鉄製30斤長加農  18挺

    鉄製20斤長加農  30挺

             〆  52挺

  がそもそもあやしいこと。多くの論文で指摘している。

2)北澤論文は、これまでなかったロシアの大砲の歴史をロシア史料から論じている。

3)尾形論文は、30ポンド砲も24ポンド砲も同じという見解で独特である。

4)そして、上記いずれの論文も不思議なことに、

 当時ディアナ号の大砲の管理をしていたであろう軍艦操練所の「御軍艦操練所伺等之留」を参考にしていないこと。ここには大砲の移動の履歴が垣間見れるのだが・・・。

先年、弁天岬台場にこの大砲が移設されたのか確認をしていたのだが、

『亀田御役所五稜郭弁天岬御台場御普請御用留』には、関連資料が5つ入っている。

①ディアナ号の砲52門を拝借したいとの、箱館奉行所から老中への上申書(万延元年10月)

弁天岬台場には、砲50門(80斤ボムカノン砲10門、24斤ランゲカノン砲28門、モルチエル砲12門)を据え付ける。

そのため先ず西洋溶鉱炉反射炉を造り、大砲鋳造の計画だが、時間がかかるので、それまでディアナ号の52門の砲と付属品を借用したいとの、上申書。

②上申に対する、老中よりの覚え(文久元年頃)

52門のうち、軍艦奉行の意向により24門なら貸せるので、軍艦奉行と相談せよのと返書。

このときの軍艦奉行は、井上信濃守清直と木村摂津守喜毅。ともに文久年間の幕府海軍改革の主導者だ。

実はこのときから、それ以上の調査はしていなかったのだが、

最近、金澤裕之著 『幕府海軍の興亡』 にロシア製大砲に触れられた箇所があったので、論文で参照された「御軍艦操練所伺等之留」のコマを確認してみた。

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そこには、下田のロシア大砲44挺を昇平丸にて品川沖へ運び、御軍船操練所へ陸上げしたいとの文久元年正月の軍艦奉行二人の上申書が載っている。

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下田から少なくとも44門のロシア製大砲を、一旦軍艦操練所に運び込む計画であることが分る。

ロシア製大砲の回航・揚陸費用は17両余りで、勘定方は直ちに承認している。

このあと、

『亀田御役所五稜郭弁天岬御台場御普請御用留』には、

肥前廻りの鉄製30ポンド砲24門を拝借したいとの、箱館奉行所から老中への願い書(文久2年2月))

ディアナ号の砲24門は借用することになったが、なお不足しているので、肥前製の鉄製砲30ポンド砲24門(長身13門、短身11門)を別途借用したいとの、願い書がある。

ここには、ディアナ号の砲24門の借用の目途がついたことの記述がある。

④フランスより砲2門の買い上げについて、箱館奉行所から老中への願い書(文久2年頃)

弁天岬台場は完成したが、大砲が不足している。フランスが神奈川に持っている砲を譲渡してもよいとの情報がある。当方にて鋳造するよりも格安なので、24斤施錠砲1門、野戦砲1門を買い上げたい、との相談

この願い書からは、大砲鋳造はできるように書かれているが、真偽は不明。

⑤弁天岬台場完成の報告(箱館奉行所から老中へ)

元治元年9月弁天岬台場は完成した。ただし大砲据え付けの地形と兵士の屯所等は未完成。追々完成する予定として、完成予定の仕様書を報告書に添付している。

以上を時系列にみると、ロシアの大砲52挺のうち、

44門は文久元年頃に一旦軍艦操練所へ、運び込まれ、そのうちの24門が弁天岬台場へ送られたことなる。

従って残りの大砲は、下田から積み込まれなかった8門と、軍艦操練所に残った20門になるが、これらが行き先不明となる。

軍艦操練所の近くに、品川台場がある。

品川台場は、ペリー来航後、江戸防衛のため13代徳川家定の決定のもと筆頭老中阿部正弘によって築造計画が進められ、嘉永6年8月末から築造が開始される。

はやくも、嘉永7年月に第一から第三台場が完工し、同年12月に第五から第六番台場、および御殿山下台場が完工している。

幕府は、韮川と佐賀との軍事交流からなど、台場の設計にも協力した佐賀藩に、200門の鉄製砲を発注する。

そのうち品川台場の砲として、佐賀藩は36ポンドカノン砲、24ポンドカノン砲を25門ずつ受注している。

また、佐賀藩安政3年以降は150ポンド砲を幕府に献納している。

品川台場佐賀藩の大砲が使われていたことは、たとえば、安政4年に品川台場にて合同演習をした際に、松代藩の警備担当の第六台場の36ポンドカノン砲庄内藩の警備担当の第五台場の同砲が破裂するが、佐賀藩製の大砲と記録されていることで分る。

品川台場にてディアナ号の大砲が使われたていたのかどうかは資料ではまだ確認できていない。

参考:

●金澤祐之著 『幕府海軍の興亡』

●品川区立品川歴史館 図録 『品川御台場 -幕末期江戸湾防備の拠点-』 

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