船越清蔵と小山六郎、および澤主水正宣嘉

船越清蔵は、長州清末の国学者であり、京・大津に住んで尊王家として活躍した。 小山六郎は、世を憂う但馬の豪農の一人として生野の変に参加し、破陣後長州へ遁れ長州の内戦などに参加する。 全く異なる二人だが、接点が一つだけある。 澤主水正宣嘉だ。
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船越清蔵は、文久2年(1862)8月8日に、萩にて藩主に御進講をした後、故郷に帰る帰途、毒を盛られ死去する。 同年11月18日に、吉田玄蕃が祭主となり長藩50人程が参詣し萩藩主からも使者が派遣されて神葬祭(但し実葬ではなく、遺物を納めた)を行う。 船越清蔵の霊山墓石をみると、現在霊山に並んでいる他の志士の墓石とはやや異質なのが分る。 ひとつは、墓石が砂岩で、高さが並んでいる他の墓石の半分程しかないこと。 ひとつは、他の墓石と異なり、名前の前に「精勇」の文字が加わっていること。 船越清蔵は、霊山にて最初に神葬祭で祀られた志士であるが、墓石の高さが異なり砂岩であることは、他の墓石より古いことの証左でもある。
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また、「精勇」の文字については、 吉田黙の明治27年11月の建墓に関する書付によれば、 「戊午年三條右府公より下賜号之二字相加へ 澤主水正宣嘉朝臣筆蹟也」とあることから、 「精勇」の二字を下賜したのは、 安政6年4月(1859)に安政の大獄の際に謹慎処分を受け、同年10月6日に謹慎していた一条寺村で薨去し、文久2年(1862)に右大臣を追贈された、三條実萬と分かる。 また墓石の筆跡は、澤主水正宣嘉の手になる。
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尊王家として、ペリー来航後に朝廷に密かに出入りし公卿と親しく交わっていた船越清蔵は、安政5年に三條実萬より生前に「精勇」の二字を頂戴する。 文久2年8月の死去後、久坂玄瑞の発案で建墓が決まり、文久2年11月頃に墓石を建るに際し、攘夷派公卿の澤宣嘉が「精勇船越守愚之墓」の文字を書いたことになる。
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この澤宣嘉は、 翌文久3年(1863年)、会津藩薩摩藩が結託して長州藩を京都から追放した八月十八日の政変により、長州藩士とともに朝廷から脱し都落ちする。 長州へ逃れ潜伏している同年9月に天誅組に呼応した但馬生野での挙兵計画を聞き、長州をひそかに脱して生野にて挙兵する。 ただ3日で破陣したため生野を脱出し、四国伊予にて小松藩士らに匿われ、のちにまた長州にて身を隠すことになる。 この澤宣嘉を盟主とした生野の挙兵に、北垣晋太郎(のち国道)、進藤俊三郎(原六郎)など同志とともに、参加したのが但馬の小山六郎だった。 小山六郎は明治4年に自決するまでに、「但馬義挙実記」と、「山陰義挙実録」を残している。
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澤宣嘉は、 王政維新のあとは、参与、九州鎮撫総督、長崎府知事などを務め、明治2年(1869)には外国官知事から初代の外務卿になり、外交畑にて活躍する。 明治6年(1873)、ロシア帝国との樺太の国境画定交渉と、マリア・ルス号事件に対処するため、駐露特命全権公使に決まったが着任する前に10月38歳で病死した。このため、ロシア公使には急遽榎本武揚が着任することになった。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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