桃井氏は、下野の足利氏の枝族で、もともと上野群馬郡桃井(現在の群馬県榛東村)の出身。
桃井直常 (もものい ただつね)は越中守護として、室町幕府を二つに裂いた観応の擾乱と云われる足利尊氏と直義の戦いに登場する。観応の擾乱は歴史番組でも取り上げられた。
正しくは、もものい ただつね
桃井直常を調べた、冊子
指導者のもと、高校生がよく調べている
桃井直常は、最初は尊氏に従い後に直義派に鞍替えし、各地で波乱万丈の生涯を送る。
天授2年(1376)に亡くなっているが、死亡時期については諸説ある。
江戸時代の剣術家・桃井春蔵家の家系図には、死亡時期は応安6年(1373)5月18日とある。
この観応の擾乱で大きな役割を果たす桃井直常は、高祖母小杉鋹(とし)の先祖になる。
小杉家の系図に、小杉初代は小杉伊右衛門尚芳で清和源氏桃井播磨守直常から6代、桃井三郎四郎直宣嫡子とある。
3年前の2015年、信州上田で開かれる「米熊・慎蔵・龍馬会」に参加する途次、途中下車して、小杉家の出身地の「小杉」(富山市布市の隣)を初めて訪ねた。ここは、桃井直常の所縁の場所でもある。
バックには、立山連峰がそびえる
直常の墓が、越中守護に補任されたときに直常が開基した富山市布市の興国寺にある。寺にある位牌には、墓石と同じく、「興国寺殿仁沢宗儀大禅定門」と書かれている。
直常の念持仏、聖観世音菩薩像
墓には、桃井直常、その奥方、息子直和の3人が眠っている。
また近くの、直常の祈願所だった龍高寺には、直常が相撲が好きで応援するときに鳴らしたという硅石が今も本堂に伝わる。
桃井直常には、男子に、直和(ただかつ)、直知(ただとも)がいる。
直和の孫に、日隆上人がでている。
浅井城(射水郡大門町嶋)の城主・桃井右馬頭直儀(桃井直常の子直和の子)と斯波義将女の益子との間に、元中2年(1385)10月14日に浅井郷で生まれる。
応永22年(1415)京都に本能寺(この時は本応寺と称す)を建立し、法華宗の一派を立て、法華宗本門流および本門法華宗の祖となっている。
また直和の系列には、江戸時代の剣術家・桃井春蔵がいる。
末裔の方は岐阜に住んでおられる。
一方、直知の子の桃井直詮(ただあきら)は幸若舞の創始者として知られる。
直詮は、幼名を幸若丸といい、父の没後、比叡山の稚児となり、生まれつき歌舞音楽に優れた才があって、草子に節をつけて謡ったのが評判になり「幸若舞」と呼ばれるようになったといわれる。
これが越前幸若舞のはじまりで、越前幸若舞はその後、幸若氏(桃井八郎九郎・弥次郎・小八郎)のみに伝承されたが、江戸幕府崩壊と共に廃業してしまった。未見だが幸若氏の系図に代々の名前があるとのこと。
直詮の肖像画が残っており、国立博物館にある。
ところで、
小杉氏は、越前前田氏に従っていたが、寛永16年(1639)に富山藩が分れた時に富山藩士となったらしい。江戸時代中期に富山から江戸に出て、6代目小杉直方のときに幕臣となっている。
高祖母・鋹がこの直方の娘で、弟に、小杉直吉、小杉雅之進がいる。
小杉直吉は、駿府の慶喜の謡・能の師匠として晩年を過ごすが、秀でていたのは桃井直詮の血を引いているからかもしれない。
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