四日市宿を出立し、隣の富田から桑名宿を通り、
七里の渡しからは、海ではなく、佐屋街道を津島まで陸行する。
桑名宿から宮(熱田)宿までは、海と陸の道がある。 風人社「ホントに歩く東海道」より
佐屋街道は、東海道七里の渡しの陸路バイパスとして設けられた脇往還になる。宿は、佐屋宿、神守宿、万場宿、岩塚宿、ついで東海道の宮宿に合流する。
幕末に14代将軍家茂が、3代将軍家光以来、上洛するに当たり、上洛路は陸路か海路か二転三転したが、最終的に陸路に決まる。(熱田)宮宿から桑名宿への道は、七里の渡しではなく佐屋路を選んでいる。
今回旧東海道を歩いた19日間のうち、雨の日は1日だけで本日がその日だが、雨中なので写真はあまりない。
0822名残の一本松
縄手の道幅は、土手も含めて約5間(9m)。松並木がなくなった現在の道幅と一致する。
因みに、土手を除いた旧東海道自体の道幅は3間(約5.5m)。
0830日永追分近くの、日永神社
0834両聖寺
1015富田の一里塚(日本橋までは98里)
四日市宿の次の富田の立場は、桑名と同じく焼き蛤で有名。
『東海道中膝栗毛』にも、「朝餉川(今の朝明川)松寺をうちすぎ、富田のたて場にいたりけるに、ここはことに焼はまぐりのめいぶつ、両側に茶店軒をならべ」とある。
1033松寺の立場跡
立場は宿場と宿場の間にあり、旅人や人足などが駕籠屋に蒙を降ろして一休みする場所
四日市宿と桑名宿との間には5カ所の立場があったが、松寺もその一つ
1054浄泉坊
1113縄生一里塚(日本橋まで97里)、樹木は推定年齢300年の榎
1125町屋川(員弁川)を渡り、桑名に入る
1130伊勢両宮常夜燈、ここを過ぎて2キロほどで桑名宿の入り口に達する。
桑名宿は、戸数2,544戸、人口8,848人(うち男4,390、女4,458)、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠120軒から成る
桑名は、港津としての起源は明確ではないが、木曽川・長良川・揖斐川の三河川の河運を利用して、河口デルタに津として重要視され、また尾張と伊勢とをつなぐ要地として、また、三川の上流からの木曽の材木や濃尾の米などの集散地として発達し、商業的にも大きく繁栄した。
桑名に関しては、桑名を通ったケンペルの『江戸参府紀行』に、元禄年間の記録がある。
1203十念寺、森陳明の墓がある
1212歴史を語る公園にて一休み後、本多忠勝像の近くで昼食
1300桑名宿を出立
蟠龍櫓、伊勢国一の鳥居、脇本陣山月、本陣船津屋を見て、佐屋へ向かう。
1340 1キロはある揖斐川沿いの土手の上の道を歩き、伊勢大橋にて、揖斐川、長良川を渡る。
長嶋城跡の辺りを通過して、
1434尾張大橋にて木曽川を渡り始める。いよいよ桑名から尾張に入る。
佐屋宿の手前で今日は終了としたが、雨の中、26キロを歩ていた。
本日の服装は、ヒートテックの下着1枚の上に雨ガッパだけ。それでも一生懸命歩くと、どんどん暑くなり汗が出てくる。
参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道」
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