年末に入手した三吉慎蔵の実家・小坂家の系図から様々な情報が分ったので、その一部を記録しておく。
①小坂土佐九郎
土佐九郎は、幼名が雷蔵、のち土佐九郎と改め、隠居後は衰眠と名乗る。
小坂家9代
妻は三吉半次政信の娘で、のちに離別し、後妻として津原善勝寺三女・かつ子を娶る。
息子三人と娘二人を授かる。
今枝流剣術師範を勤める。元周公へ大目録之巻を授与奉る。
御普請方支配、細工人奉行並びに大納戸役を相勤める。
元治元年8月、英蘭米仏4か国の軍艦が馬関へ襲来の節は、細工人奉行にて御城山松崎を守衛する。
剣術師範と細工人奉行を数年出精相勤めた功により、御蔵米10石御加増になり都合60石を賜わる。
明治元年4月19日病気のため師範・細工人奉行を退役する、その際、数年来誠実に相勤めた功により御蔵米5石御加増あり都合65石を賜わる。
同年6月29日依願隠居する。
明治9年5月2日死去、享年73歳。菩提寺の徳応寺墓所に葬られる。
明治23年8月23日功山寺山共有墓地に改葬する。
現在の功山寺墓所
15代小坂住男により、墓所は整理され新たに墓石が建立されている
衰眠の墓石
もともとは徳応寺にあった墓石
②長男・小坂住也
住也は、幼名惣三郎、のち弥助と改め、住也と改名を仰せ付けられる。
小坂家10代。
母は善勝寺三女・かつ子。
妻は正村喜三郎忠起四女(明治5年正月27日死去)、後妻は田部村神職渡邊清房三女。
嘉永5年2月27日部屋住のところ、中扈従に召し出される。
御近習御小姓、御立山奉行、彦島郷筒頭相勤める。
元治元年8月、英蘭米仏4か国軍艦の馬関への襲来に際し、御城山関見台へ出張し、同所にて郷筒頭を命じられ、内日・川棚・西村の農兵50人を預かり直ちに前田村の役を相勤める。
同年10月20日御小納戸役、又近侍小納戸管事、萩在番、内帑管事客司四等官
明治元年6月29日父土佐九郎隠居に付き家督する。
同2年10月御改正従前の禄高が廃され総じて現石称にて70石以下40石以上現石12石を賜る。
明治9年7月14日隠居を願い、嫡子直三に家督させる
廃藩置県後も元敏公に仕える。明治34年10月18日病死、享年72歳。
功山寺に葬られる。
住也の墓石
③次男・三吉慎蔵は、幼名友三郎、のち慎蔵と改める
母は善勝寺三女(三吉家家譜では二女)
妻は、正村喜三郎忠起三女・伊予
三吉半治政信の跡継ぎの三吉十蔵の養子となる
以下略す
明治34年2月16日没す。享年71歳
功山寺三吉家墓所に葬られる。
④三男・松三郎は早世
母は善勝寺三女
天保15年正月19日死去。墓所徳応寺。
明治23年8月23日功山寺山共有墓地に改葬する。
以上の事から、
小坂土佐九郎の先妻は、三吉半次政信の娘で離縁していること
次男の慎蔵は、この三吉半次政信の長男十蔵の養子になっていること
長男の住也は、正村喜三郎忠起の四女を妻としたこと
次男の慎蔵は、正村喜三郎忠起の三女を妻としたこと
三男の名前が松三郎であること
小坂家の代々の菩提寺は徳応寺であったが、明治23年にすべて功山寺に墓所を替えたこと
(以前徳応寺で墓を探したが見つからない理由が明確になった)
小坂土佐九郎の事蹟が明らかになったこと(加増の理由が明確になった)
小坂住也の事蹟が明らかになったこと(前田砲台で戦ったことなど)
などなど、三吉家側で今まで不明な多くのことが明らかになった。
小坂家の方々有難うございます。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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