かつ子とその実家の事を調べている。
かつ子は、長府藩士小坂土佐九郎(馬廻役、剣術指南役)の妻で、文化3年(1806)7月23日に生まれ、明治30年(1897)に92歳で亡くなっている。慎蔵は二人の次男になる。
実はかつ子自身についてはあまり情報がない。
小坂家系図では小坂土佐九郎の項に妻として津原善勝寺三女とあり、三吉家系図では三吉慎蔵の実母として善勝寺二女と記されている。
二女か三女かの違いは、長女や次女が早世した場合、繰り上げされる場合もあるのでさして問題ではない。
小坂家系図に津原善勝寺とあることから、下関市王司神田にある善勝寺(今の御住職は17代目津原氏)の出身と分かる。
かつ子がなぜ長府藩士・小坂家の元に嫁に来ることになったのかその経緯はよくは分かっていない。
善勝寺の所在地の下関市王司の隣に員光(かじみつ)町があるが、その昔、三吉家先祖が毛利秀元公に召し出されてから慎蔵の時代まで、員光村に三吉家の知行地があった。ひょっとすると確認はできていないが、小坂家の給所もこの近くにあって、善勝寺はその近隣のお寺だったのかもしれない。
善勝寺の寺名は、津原善勝(よしかつ)が寺を興こした時に、自分の名を採って名付けている。
小坂家系図に「津原善勝寺三女」と記しているのも、「津原善勝」寺という意味かとも思われる。
そうであれば、当時でも、津原善勝の家系が名のある名跡として知られていたのかもしれない。
下関市のHPには、「青山くずれ」との関係で、津原善勝のことが紹介されている。
それによると、確認はしていないが『防長古城史』にあらまし以下の記述があるらしい。
「青山城主の高森正倫(まさとも)と勝山城主の内藤興盛とが不和となり、勝山青山合戦が起こった。
大永7年(1527)10月、青山勢には、津原善勝、津田興輝が加勢し、1万2千の軍勢で勝山城を取りまいたが、勝山勢は大内氏の援軍を得て3万5千の軍勢で逆襲に転じ、青山の城を四方から攻め、一刻にしてこれを落とした。青山勢は残らず討死し、その遺骸は里人により丁重に葬られた」という。
http://www.city.shimonoseki.lg.jp/www/contents/1105939655875/index.html
以上の記述によれば、この戦いで津原善勝は戦死したと思われる。
従って、善勝寺はそれ以前に開基していたことになる。
あるいは、未確認だが、子孫が善勝のため寺を創建したのかもしれない。
ところで、善勝寺には、先祖代々の系図など、昔の史料が全く残っていない。
元々はもちろん伝わっていたのだが、時期は不明だが散失しており今は存在しない。
幕末の頃のことも調査できず、詳細は明らかにできない。
従って、かつ子の父母、兄弟姉妹についても知るすべがなくなっている。
もっとも、嫁に行った娘の詳細を残すことは当時はあまりないことなので、かつ子について史料が残っていても精しく記されているとは限らないのだが。
とりあえず今は、慎蔵の実母の家系が大永7年(1527)頃までは遡れるのをよしとしておきたい。
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