三吉慎蔵と中山忠光公 その1

中山忠光公について、『三吉慎蔵日記』には2か所の記述がある。

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最初は、忠光公が攘夷のため馬関の台場を視察に来関したときに慎蔵が御付となり警護したとき。

文久三年四月十六日

「 中山侍従殿攘夷期限ニ付萩表御下向之処宗藩宮城彦助御付ト相成 馬関台場実地御出張御見聞ニ付右中山殿ヘ為御守衛御附添可仕談御沙汰ニ付 本日ヨリ馬関新地白石方ヘ出張致シ宮城ト申合相勤候事」

この日は、警護の役割方法を、忠光の御付の萩藩士宮城彦助と白石正一郎方で相談している。

但し日記には実際の忠光公の在関中の詳細については記述がない。

つぎに登場するのは明治になってからである。

忠光公が暗殺されたあと幕末激動の中で暗殺真相の究明が薄らぎ明治を迎えるが、

明治20年頃から当時の真相を調べる者も現れて忠光公暗殺の話が広まり始める。

そうした中、忠光公逝去の状況について皇太后大夫の杉孫七郎から慎蔵に問合せがある。

〇明治二十一年八月二日

「 中山侍従忠光病死ノ次第書ヲ杉氏ヨリ尋問ニ付市兵衛町御邸家記之扣ヲ相廻シ候事」

長府藩の正式な家記『毛利家乗』は明治16年に稿本が出来上がっているが、その後、清書され控えも作成される。元治元年11月15日の条に、「十五日侍従中山忠光病テ延行村ニ卒ス」と記述されており簡単な説明も記述されている。長府毛利家としては、今までの主張をそのまま返答したことが窺われる。

当時、慎蔵が忠光公逝去を知ったのは、逝去してから日がしばらく経ってからである。

慎蔵は元治元年4月から政事堂がある山口在番役になるが、萩藩主毛利敬親が10月に萩に戻るので10月以後は萩在番になる。そしてこの翌月に長府で忠光公が逝去する。

長府からの知らせを萩で受け、その逝去の報告を慎蔵が萩で行った記録が、山口県文書館蔵『中山忠光卿御略歴』に残っている。

「  長府御屋敷番

    三吉慎蔵

右十一月十五日御城罷出内々申入候趣ハ中山侍従殿御事 先達而御政府方ゟ御内移ニ而長府御領之内御滞在被為在候處 去月廿八日頃ゟ御氣分相ニ而過留三日御死去被成候 右侍従殿ハ御両國内御滞在之儀者御内密之事ニ付 御遺骸御仮埋 (以下略す)

右書取之趣御當役方申上御政務座江差廻候事」

慎蔵の口頭?での届けを書き取ったものだが、

慎蔵は元治元年11月15日に、忠光公の逝去日は11月3日と、報告している。

ものの本には、「 長府藩は宗藩には 『十一月十五日延行村で御逝去 』 と届けた」、との記述が散見されるが、報告した日の間違いだとわかる。あるいは、長府毛利家の御家記の 「十五日侍従中山忠光病テ延行村ニ卒ス」の記述から、当時そのように宗藩に届けたと考えたのかもしれない。

ただ、慎蔵が逝去3日を15日に届けているのは、重要人物の逝去届にしては、時間がかかりすぎているのは間違いない。

長府と萩とは、人馬でも1日のうちに行ける距離にあり、逝去した当日(実際の暗殺は8日深夜が有力)にも報告には行けたはずだ。

たとえば慎蔵もその日のうちに萩から長府まで走ったことがある。

文久三年三月二十八日

「御紋服 壱着

          三吉慎蔵ヘ

右ハ昨廿七日萩表ヨリ御乗切ニテ即日御帰城之節 徒ニテ御供馬脇付添御道筋乗馬御供絶シ候節モ色々御用弁致シ 御帰城迄御馬脇付添候段深御祝着 思召依テ拝領被 仰付候事」

藩主毛利元周がその日のうちに萩から長府へ騎馬で帰り、慎蔵も馬脇で徒にて付き添っている。

慎蔵の報告した逝去日が慎蔵や萩藩士の聞き間違いでないとしても、11月3日は大いに疑問符が付くが、結局は慎蔵も関わった『毛利家乗』(明治16年稿本)の記述11月15日が公的な逝去日となっていく。

続きは:三吉慎蔵と中山忠光公 その2

     https://bakumatusanpo.seesaa.net/article/201504article_1.html

参考: 中山忠光遭難夜話

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