『三吉慎蔵日記』を例に

史料は比較検証が必要となることの例 三吉慎蔵日記は清書されていて、原本が行方不明になっている。 清書は慎蔵が第三者に依頼しているので、清書を確認後、慎蔵自身が原本を破棄したようだ。 清書されたあと、慎蔵自身が内容確認はおこなっている。 慎蔵は東京で長府毛利家に仕え、また宮内省に出仕し、明治23年に60歳で退官したあと、長府毛利家元敏公の頼みに応じて元敏公に従い長府に戻っているが、 清書した時期と場所は、明治30年前後で、長府にて行っている。 この清書された『三吉慎蔵日記』は、家督をついだ信州上田の三吉家が所蔵している。、 じつは、『三吉慎蔵日記』は長府博物館にも書き写したものが残っている。 この長府博物館所蔵の日記は、長府毛利編纂所によって、日記原本からではなく、清書された『三吉慎蔵日記』を元に書き写している。 長府毛利編纂所版は、所員が清書版から一旦書き写したあと、別人によって清書版との比較見直しを行い、書き写のし間違いは朱で訂正されている。 ところが、見直しているにも拘わらず、清書版と長府毛利編纂所版には違いが散見される。 もちろん、長府毛利編纂所版の方が間違っているのだが、見直しているにもかかわらず、見落とした箇所もあるといっていいのだろう。 たとえば、 明治16年4月9日については、 清書版には、 「高知縣武知半兵衛ヘ碑建設ニ付思召金御下賜之儀小藤ヨリ申出候事」とあり、
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長府毛利編纂所版には、 「高知縣武知半兵衛碑建設ニ付思召金御下賜之儀小藤ヨリ申出候事」となっている。
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この条の読みは、 清書版では、 「高知県の武知半兵衛(武市半平太の養子)に対し、武市半平太の像(か顕彰碑)を建立するについて、各宮家から思召金を下賜しようとの小藤の申出の件」 長府毛利編纂所版では、 「高知県の武知半兵衛の像(か顕彰碑)を建立するについて、各宮家から思召金を下賜しようとの小藤の申出の件」と読まれてしまう。 「ヘ」があるかないかで全く意味が違ってくる。 また長府毛利編纂所版だけみれば、武市半平太を武知半兵衛と、慎蔵が書き間違えているようにも受け取られてしまいかねない。 見直し訂正された資料でも、必ず他の資料との比較検証が必要との、一つの例と云える。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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