慎蔵は明治34年2月16日、数え71歳で長府にて亡くなっている。
先日、明治33年と34年の慎蔵日記を読む機会があった。
明治33年以前の日記は清書されているが、明治33年と34年はこれまで清書されていなかった。
一方、清書された日記の原本については、破棄されたのか見つかっていない。
明治33年の日記原本の存在は、慎蔵が翌年2月に亡くなっているので、清書を依頼するいとまもなかった事を表しているようだ。
この晩年の日記原本を見ると、他の慎蔵の文と違い、字はミミズがのたくったかの様な筆で極めて読みにくい。
どうも年を取るに従い、くずし字がさらに崩れ、また筆力が弱くなってきていたようにみえもする。
ただありがたいことに、読みにくい字を読める字に起こしていただいたことで、今は日記の内容を確認することができる。
東京で宮内省に奉職し、午后は長府毛利家にも仕えていた慎蔵は、明治24年に長府に帰る毛利元敏公の依頼で、東京から長府へ戻ってくる。
長府に帰ってからの日記は、長府毛利家関係の記述は相変わらず多いが、家族や実家・小坂家、長府・清末など近隣の親戚・縁者についての記述も増えてくる。
家族ではとくに、明治27年5月1日に娘の友子に孫の梅子が生まれてからは、梅子のことがよく出てくるようになる。
日記によると、梅子の名付け親は慎蔵自身である。慎蔵死去の年は数えで8才になっている。
明治30年に梅子の母・友子が発症し福岡にて入院する(明治32年まで入院しそのまま現地にて死去する)。
また父の玉樹は東京で大村家に奉職しているので、明治30年以後は、梅子の面倒を慎蔵夫妻がみていた。
長男米熊の家族は信州に居を構え近くにいないので、この頃の慎蔵・伊予夫妻には孫の梅子がとてもかわいく生きがいのようになっているかのようだ。
何か近くでイベントがあったり、長府近辺にいる親戚を訪ねるときは梅子を伴うことが多くなる。
たとえば、明治33年には4月7日小学校の入校式があり、慎蔵が付き添っている。
ただ梅子は体が弱く、しばしば松岡医師の世話になり、学校もよく休んでいるが、とにかく、目の中に入れても痛くない孫娘だったようだ。
そんな慎蔵にもやがて最後の時が訪れる。
以下に、その直前の様子が分かる日記をあげておこう。
明治34年正月の日記では一日5行くらい記述があるが、2月に入ると極めて少なくなる。
慎蔵は、正月31日より気分を害し、以後時々、松岡医師(元藩医)の来診がある。
二月一日小雨 四九
同二日雪 三弐
同三日雪 三壱
同四日雪 三弐
○一松岡来診あり
同五日小雪 三八
一ふとう酒三本かし一個
右清末公より内藤金次郎御使を以
御二方様より御内々御持被下候事
一用達所へ出頭す三島家扶御免
江良家扶被仰付候事
同六日晴 四
同七日雪風 三九
一用達所へ出頭す記事なし
同八日陰小雪 三九
○一松岡来診薬用す
同九日陰 三八
○一松岡来診
同十日陰 三九
○一松岡来診
同十一日陰雪 四
○一松岡来診
一式あり出校す梅子
(欄外)
御祭日休
同十二日小雪 三六
同十三日雪 四
○一松岡来診あり
2月7日で用達所(長府毛利家事務所)への出勤も止め、自宅療養していたが、2月16日に永眠している。
慎蔵死去の報は、清末毛利家、萩毛利家など毛利家各家と岩国吉川家に知らされ、親しかった乃木希典には家扶を退任したばかりの三島盛二より病死の様子を報じている。
慎蔵は、藩政時代は若殿様傳役として明治期には長府毛利家令として仕えた毛利元敏公の意向により、功山寺毛利家墓所横に墓地を下賜され、葬られた。
その時、2年前に病死していた娘・友子も法華寺から改葬され、慎蔵の横に眠っている。
手前から、三吉友子、慎蔵、慎蔵妻・伊予、奥が毛利家墓所
参考:
上記の日記の、日付・天気のあとの数字は、気温(華氏)を表している。
この気温をつけ始めたのは、明治33年7月28日から。
気温の数字で、一桁の数字が散見されるが十を省いている(2月6日、11日、13日の四は、四十)。
現在の気温に直すと、各月の最低温度と最高温度は以下のようになる。
○華氏
8月は、 84~90
9月は 、78~84
10月は 63~75
11月は 49~71
12月は 41~52
1月は、 42~53
2月は、 31~49
○摂氏に換算し小数点を四捨五入すると、、
8月は、 29~32
9月は、 26~29
10月は 17~24
11月は 9~22
12月は 5~11
1月は、 6~12
2月は、-1~ 9
となる。
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