下関長府山口の旅 その1

第1日目 (3月25日) 下関在住の伊佐さんの案内で、中山忠光公の延行村での潜居跡をめぐった後、法務局下関支局にて、三吉慎蔵とその縁者の調査のため旧土地台帳を閲覧した。
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時間の都合ですべてを調査はしきれていないが、取りあえず中間報告をしておきたい。 〇慎蔵の生家・小坂家      生家
画像                     真ん中上下に横枕小路が走り、その横枕小路の上左端に「小坂土佐九郎」とある
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現在の場所
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     地番は、宮の内、1756番
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下関市の長府城下町にある横枕小路の端に、代々、小坂家が住んできた。 幕末時は、長府藩剣術指南役・小坂土佐九郎(9代)が暮らし、慎蔵もここで土佐九郎の次男に生まれている。 この地は、その後は以下の変遷を辿る。 土佐九郎の長男・住也(10代)は慶応4年6月22日に家督を継ぎ、明治9年7月14日に長男・直三(11代)に家督を譲る。 ところが、直三は明治14年10月9日に17歳にして死去してしまう。 土地台帳の記述は、直三の跡を相続した実弟・義作(12代)から始まっている。 義作は明治31年9月25日に病死し、実子なきため、実父・住也が13代として跡を相続する。 そして最終的には、啓輔の子住男の代の大正9年12月15日に、1650年頃から小坂家が代々暮らしてきた土地を離れていることが分る。 離れた理由は不明だが、大正9年は、小坂住男はまだ山口師範学校2年生のときであり、母イトの都合であったかもしれない。 〇慎蔵が養子に入った三吉家     真ん中あたりに「三吉半次」とみえる
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    現在の松岡医院の場所になる
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    地番は、南の浜、2071番
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慎蔵は、安政4年(1857)3月1日に、三吉家の養嗣子となる。 養父の十蔵は、前年10月9日に死去し、養祖父の三吉半治も翌安政4年1月18日に死去している。 慎蔵が三吉家の養嗣子になったのには理由があるはずだ。 実父小坂土佐九郎は、三吉半次の娘を妻に迎えたが、のち離別する。理由は伝わっていない。 土佐九朗は、その後、慎蔵を生む津原かつ子を後妻にする。 おそらくこの時の縁が、小坂家と三吉家の何らかの誼になっており、慎蔵が三吉家の養嗣子になる要因になっていると思われる。 慎蔵は、ここで養母喜久と暮らし、翌年1月に正村喜三郎の3女・伊予を妻に迎え、長男米熊、次女トモと明治4年まで住む。 慶応2年以後は、坂本龍馬が度々訪ね、暗殺後はお龍とその妹紀美を預かった場所でもある。 ただ残念ながら、土地台帳によれば、区画整理をしたため、それ以前の慎蔵が明治4年に上京した折、また家族を東京に呼び寄せたあと、この土地がどうなったのかの記録は残されていない。 上京した後の、長府での留守宅は、長府村大字豊浦村第315番地の栢俊雄宅(妻・伊予の縁者)としていたらしい。 〇長府へ戻ってからの三吉家     江下の慎蔵宅があった場所
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地番は、江下、(10番)、11番、12番で、分筆前なのでかなり広い     江下 11番
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    江下 11番(のちの分筆分)
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    江下 12番
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    江下 12番(のちの分筆分)
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現在の場所では、長府運動場の辺り。運動場には、前身の山口大学農学部創設の地記念碑がある。
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慎蔵は、東京にて宮内省に出仕している間に、毛利元敏公に従い長府に戻る事に決していたため、 帰る1年前の明治22年3月28日に江下(長府村十一番地)に土地を購入している。 所有者の板垣直貞からの購入交渉は、妻伊予の縁者・栢俊雄に任せていた。 同じ年8月、慎蔵は、松山に駐屯中に容態の悪化した品川氏章少将のため、大阪の緒方医師を伴って松山に寄った後、長府へ出向き、3週間滞在している。 その際、購入した土地の検分を行い、建物の位置を決めている。 また、以前より交渉していた隣の土地(長府村十二番地)を9月5日に梶山官兵衛より購入し、地所を広げている。たまたま、その翌日、品川少将は治療の甲斐なく死去している。 同年11月に土蔵が完成し、翌明治23年1月9日に、建物が棟上したことが、栢俊雄から東京の慎蔵に報告がある。 そして明治23年3月23日に宮内省を退官し、長府に戻り、江下で暮らし始める。 ただ何故か、明治29年7月26日に小島虎蔵方(長府村816番屋敷)を借り、転居している。 この場所がどこかは今はまだ調べきれていない。 明治30年10月19日には、江下の本宅の庭の手入れの検分に出かけているので、しばらくは使用していないようだ。 明治27年5月1日に生まれた慎蔵の孫・梅子によれば、泳ぎに行くのに家から浜辺まで自分の家だったとの言い伝があるが、この本宅の事とみてよいようだ。 〇長府乃木神社の一部土地を所有     現在の乃木神社の敷地
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    所有していた地番は、亀の甲、1844番
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現在の乃木神社の北側の亀の甲町に、三吉慎蔵の実兄・小坂住也がこの地所223坪を所有していた。 住也の次男・保三(慎蔵の甥)は、江本家の養嗣子になり、江本泰三と名乗る。住也は、この次男・江本泰三に、明治28年7月4日、亀の甲の土地を譲渡する。 ところが、明治29年11月5日に、江本泰三は以前からの病で死去してしまう。実子はなかった。 そこで、実兄住也は、江本家相続人として血統を考慮し、慎蔵の孫・梅子(このとき2歳)を戸主にできないかと、慎蔵に相談をする。12月29日に、慎蔵は熟慮の上、梅子の相続人を断り、親戚の小野ではどうかと答えている。 ただどうも決着がつかなかったのか、翌明治30年1月22日に、養父江本弾作が一旦家督相続する。 住也とは、1月18日には屋敷を売却するときは連絡するように頼み、4月22日は坪1円での購入を内決する。7月10日に江本弾作から坪1円、計223円にて購入し、10月23日に登記を済ませている。 登記前の10月19日に、江本宅へ出かけ、庭手入れの検分をしている。 慎蔵は、明治34年2月16日に死去するが、この土地は同年12月12日に中島太作に所有権が移転している。 その後、所有者が何回か変わる。 大正3年に長府に乃木将軍記念会が結成され、乃木の旧家が復元され
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大正8年に隣接して乃木神社が造営される。 翌大正9年7月7日に、乃木将軍記念会が、この土地を買収し、翌8日に現在の乃木神社に贈与している。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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