この二人について僕にとっては分らないことが多い。
最近、時々答えのない疑問があれこれ湧いてくることがよくある。
先日3/21、忠光公の潜居暗殺関係の史跡めぐりをしたのだが、その時にも疑問が生じた。
夜打が峠に夜中に一旦埋めた遺骸を掘り起こし、夜明け頃までに現在の中山神社のある綾羅木まで運んだという。
あの距離をあの時間で、遺骸の入った長持ちを人に怪しまれずに人を避けて運べるだろうか?
そして僕にとっては肝心なのは、慎蔵は
忠光公の暗殺についてどこまで知っていただろうか?
ありえないことだが病死だと最後まで思っていたのだろうか?
暗殺後の後始末(長府藩の隠蔽)についてはどこまで関与していたのだろうか?
忠光の死因に不審を懐き死因を確認しようとした一人に天誅組破陣から逃れた池内蔵太がいる。
内蔵太は、慶應2年1月3日頃から1月19日まで龍馬、慎蔵ら4人で下関から上京の途に就くが、このとき話題にしなかっただろうか?
慎蔵にとって一貫しているのは、死因を病死としていること。
そして一貫していないのは、、
①元治元年11月15日に山口在番役(この時は萩に在番)として忠光公の死亡を萩藩に報告しているが、
11月3日に長府領内にて病死したと届けている。
②明治16年に林洋三の編集責任ではあるが、御家記では「十五日侍従中山忠光病テ延行村ニ卒ス」としている。
出来上がった御家記草案を慎蔵が長府毛利邸に届け、また別の日には毛利元敏公に前書を頼んでもいる。
のちに『毛利家乗』と命名される御家記の成立に、当初から慎蔵も関わっていたと考えてよいのだろう。
その意味で、この①と②の矛盾が理解できない。
②の死亡日を3日ではなく15日としたのは理解できる。
潜居とはいえ、暗殺の8日まで元気でいたのを知る者は多い。3日では作為がありおかしいと気付く。
一方8日の暗殺現場を見たものは少ない。
であれば、もっと生存していたことにすれば、生きているのを見た者がいないとしてもその人が知らないだけとして済ませられるはずで、
暗殺に関わった現場、刺客のアリバイなどなど総て隠蔽するに役に立ってくる。
そうであるとすると、
①の報告が極めておかしいことになる。
重要人物の死亡届としては、暗殺の11月8日から届け出た15日まで日が経ちすぎている。
トップシークレットでもあったので、長府と萩とで調整があって、そのあと長府から届を出したのではないだろうか?
その間の人物の行き来、書簡のやり取りで時間がかかったとすれば、一週間届が遅れたのは納得はできると思う。
そして、死亡を病死として事実化するために、届を出したわけだ。
そこで、あとになって①と②の齟齬が生じることになるのだが
このとき、慎蔵は暗殺の事実をどこまで把握していただろうか?
これが分らない。
三吉慎蔵は日記を19巻残しているが、幕末の日記は記述が少ない。
たとえば、明治期は原稿用紙にして年平均100枚近くあるが、慶應3年などは4枚だけである。
また藩政時代では親類以外の人物が亡くなった時の記述は一切ない。盟友であった龍馬についても然りだ。
ただ、日記に記述しなくとも、慎蔵は備忘録を作っていた節がある。
しかしそれも、清書されていない最後の数年の日記は原本が確認されているが、清書された日記の原本はないので、明治30年以降に日記草案を作り取捨選択して清書した後で、日記原本は破棄されたようだ。このとき関連する備忘録も破棄されたのでは考えている。
じつは三吉家には未だ未開封の封印した史料があるが、それが何なのかはまだ誰も知らない。
この中に何か新しい事実があればよいのだが・・・・
ところで、①の萩藩への死亡届の公式の報告書には、12文字の「見せ消ち」がある。
慎蔵からの届を聞いた者が報告書を作っているのだが、あとで、書いた者か報告を読んだ別の者かが12文字削除している。
「御存生中真ノ御忍之事ニ付」
の文が見せ消ち
もちろん書き写しの場合は、この12文字は書き写さないことになる。
ではなぜこれらの文字を削除したのか、疑問は尽きない。
なお、①の萩藩への死亡届の公式の報告書の「見せ消ち」については、
田中洋一氏にご協力を頂いた。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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