下関で開催された長清会の翌日、3/22に長府と清末の間にある善勝寺を訪ねてきた。
江戸末期、このお寺の三女・津原かつ子が長府藩士小坂土佐九郎に入嫁した。
かつ子は、三吉家に養子に行った慎蔵の実母になる。
善勝寺は、下関市王司地区神田の、津原山の麓にある。
お寺の背後の津原山には、津原山城(旧名稲積山城)の跡がある。
山頂は平坦にして北は厳しく南は広く海に通じ、東に神田川が流れ西は街道に通じる要害の地であった。
津原の「津」は往古、豊浦津の一部であって、ここは豊前国宇佐郡向野に渡る渡し場であったと伝わる。
津原城は、琳聖太子(大内氏の始祖)の末裔の、大内二代長門守正恒の三男正興が二万七千石を分地し、長門国豊浦郡神田村津原の稲積山に居城したことに始まり、のちに地名を取って氏を津原と称した。
大内弘世の時、津原重興は臣位に配属し、津原氏は代々大内氏に仕え軍功があった。津原の名は、民部少輔善並、播磨守善連、播磨守善是などが史書に見える。
善勝寺の開基は、道西といい、俗称は津原主計頭善勝という。津原山城主二万七千石を領した。
大永7年(1527)10月、勝山城主内藤興盛と青山城主高森正倫両氏の勢力争いに際して、善勝は津田貞輝などとともに、高森氏に加勢して合戦に及んだが、同月25日敗戦し青山城は落城する(里人は「青山くずれ」と語り伝えている)。
善勝は、先に嫡子・兵部善次を失い、更にまた戦いに破れ厭世の思い深く、遂に蓮如上人の直弟子となって道西と法名を賜り、居館を寺として俗名を取って善勝寺と命名し、山号は旧城所在の稲積山をとり、居城跡に寺院を建てる。以来、法灯連綿として今日に至っている。
三吉慎蔵日記には、実母の実家の善勝寺について、何か所か記述がある。
〇明治28年4月29日
善勝寺ヘ伯父三十三年忌案内ニ付兄同道ニテ午前ヨリ参堂ス
(兄小坂住也と一緒に、母かつ子の兄の33回忌に出かけている)
〇明治29年11月20日
善勝寺へ尋問ス杉子ノ書軸並ニ菓子筥ヲ持参ス
(杉孫七郎子爵は大内氏古文書を調べているので、その関係かと思われる)
〇明治30年4月2日
善勝寺隠居不快ノコト兄ヨリ伝達アリ
(母かつ子はこの時92歳、おそらく亡くなったのは母かつ子の兄嫁と思われる)
〇4月3日
小坂老人ヘ津原隠居死去ニ付見舞出頭ス
(小坂老人は、実母かつ子のこと)
〇4月5日
善勝寺隠居埋葬本日ノ処病後ニ付相断リ香花料弐拾銭ヲ送ル
〇5月6日
本日ハ善勝寺ヨリ三十五日四十九日ノ法会案内ニ付香料拾五銭持参
同寺ヘ午前ヨリ至ル帰路老母ヘ菓子送ノ分持参ス
〇12月14日
小月南部へ答礼又善勝寺へ仏参
(小月南部は、三吉慎蔵の養母の家)
〇明治31年3月25日
善勝寺来宿菓子一筥到来ス
〇3月29日
津原善勝寺棟上ニ付案内アリ梅子ヲ同行ス
(津原の善勝寺の本堂の棟上げに、孫の梅子を同行している)
お寺を訪問したがご住職は京都に滞在し不在でしたので、またあらためて時間をとってお話を聞く機会を設けようと思いながら、先祖の地を後にしたのでした。
参考:善勝寺パンフレット
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