下関にて中山忠光公史跡めぐり

3/21晩に下関にて長清会が開催されるため、それまでの間、忠光公の史跡を回ってきた。 中山神社に用がありついでに史跡めぐりを思いついたのだが、現地については全くの地理不案内でもあったので、地元下関のFB友達の伊佐さんの快諾を得て、コース案作りも現地案内もしていただいた。 回ったのは以下の通りで、効率的でしかもゆったりしたコースになっている。 ①中山神社--->②倉光家--->③三恵寺--->(昼食)--->④常光庵--->⑤夜打峠---> ⑥山田家墓所--->⑦大田家旧宅--->⑧本宮中山神社--->⑨四恩寺跡 中山忠光公は、文久3年(1863)の天誅組の破陣後、長州へ遁れ、11月11日に下関に入リ長府藩で預かる。探索者の目を逃れ、その後、藩内で転々と居場所を変えるが、1年後の元治元年(1864)11月8日、豊北町田耕(たすき)にて、刺客の手にかかり暗殺されてしまう。遺骸は一旦、夜打峠に埋められるが直ぐに掘り起こされ、今の中山神社のある綾羅木の浜まで運ばれ葬られる。 以上の関係史跡を、初めて会う伊佐さんと新下関で待ち合わせして、車で案内していただいた。 京都ではいつも史跡めぐりといえば歩きなのだが、忠光公の足跡はかなり広範囲で、しかも密かに潜居した人里離れた場所が多く、車があると便利である。 ①まず最初はなによりも、忠光公が眠る中山神社のある綾羅木に向かう。 元の社殿があったあたりの参道を通り、中山神社に至る。
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神社では三ヶ本宮司にお会いし、昨年9月の東吉野で宮司がされた紀念講演の拝聴のお礼と、その時に交わした用事の結果を確認した。ある歴史作家の神社訪問のお手伝いをさせていただいたのだが、宮司自らその方を境内案内されたとのこと。いつになるか確認はしていないが、忠光公関係の出版が楽しみなことだ。 そして御祭神 墳墓にお参りし、愛新覚羅社と、宝物殿を拝見させていただいた。
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②次に、倉光家に向かい、お地蔵さまと寺屋敷跡を拝見した。 倉光家は三恵寺の近くにあり、伊佐さんが住んでいた隣の家になる。
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伊佐さんによると、倉光家に伝わる話は以下の通りである。 忠光公は山の上の三惠寺に1日だけ潜んだが、あとは山麓にあった地蔵堂に潜伏した。その地蔵堂に食事を運んでいたのが倉光家。忠光公は潜伏中、地蔵堂のお地蔵さまをよく拝んでいたが、大正の頃か、その地蔵堂は廃庵になったため、このお地蔵さまを倉光家の裏庭に移した。そして今の当主が裏庭は暗くてあんまりだと思い、家の横の陽のあたる現在の場所に移動させている。
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忠光公が潜居した地蔵堂はとうしょう寺(漢字不明)の末庵で、とうしょう寺は倉光家の直ぐ近くの、今は寺屋敷址と呼ばれる場所にあったらしい。倉光家のお墓もこの場所にある。 ここの集落は、伊佐家側の上組と、倉光家側の下組とに分かれるが、とうしょう寺が下組側にあったために、倉光家が忠光一行の世話をしていたのではないかと、伺った。 ③三恵寺(さんねじ)(豊浦町川棚) この寺は、大同元年(806)実忠和尚が創建し、川棚温泉の発見者といわれる怡雲(いうん)和尚によって再興されている。
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忠光公は、外から見てもわからない本堂の中二階の部屋に、探索者の目を避け潜んだという。今は非公開とのことで潜居した部屋は残念ながら拝見できなかった。 ④常光庵 (豊北町上畑) 常光庵は鍛冶屋の離れだったらしい。 元治元年7月9日に忠光公はこの上畑の常光庵に入るが、四国艦隊襲撃の報に接し、じっとしておれず戦いの先頭にたたんとして常光庵を脱出する。しかし、潜居中は侍士として警護した大庭伝七の諫言により上畑へは戻るが、常光庵には入らなかったという。
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⑤夜打峠(よいちがたお) (豊北町田耕) 暗殺された忠光公の遺骸が一旦埋められたという夜打峠は、地元の人に案内されなければ辿り着けなかったかもしれない。
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数十メートルほどの岡の上にあり、当時は岡の中腹までの周りは一面水田や畑であったらしいが、今は田畑も荒れ果て木が植えられている。岡へと続く道は、当時家があった事を示す石垣の下を通り、岡の下で三手に分かれ岡を廻って通っている。
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両側の道を通ると夜打峠を探すのは難しいが、青年団によって作られた岡を直接登る真ん中の道を進めば夜打峠にある「故侍従中山忠光古跡」の石柱にたどり着ける。
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地元の人の話では、この石柱のもとで昭和20年までは鎮魂祭が行われて来たという。 ⑥山田幸墓所 (豊北町田耕) 夜打峠に遺骸は埋められたが、岡の上は当時は昼は見通しのきく場所であり見つかり易いとの懸念から直ぐ掘り起こされ、岡を越え庄屋山田幸八の家に運び込まれる。 その山田家旧家を遠望した後、その裏山にある山田幸八の墓を訪ねた。
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山田家代々の墓がある墓所の端に幸八の墓石はあり、山田幸八 三十八才、明治四年未四月十九日と刻まれている。
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また、墓所の上方向には、山田家に遺された忠光公の使った什器や衣類などを祀って鎮魂祭を行ってきたといわれる場所があり、拝見してきた。
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⑦大田新右衛門旧宅 (豊北町田耕) 忠光公はこの太田家(現在の建物は建て直している)に2回滞在した。
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1回目は、元治元年(1864)8月下旬に室津観音院から移り、四恩寺下の大林家に移動するまで隠棲した2か月弱の間と、 2回目は、身辺が危ないとの山田幸八の忠告により大林家から移ってきた同年11月5日から、幸八に誘い出される11月8日までの短い間。 当時の様子を聞きたいと訪ねたが、残念ながら家人は不在で、家伝など詳細を聞くことはできなかった。 ⑧本宮中山神社 (豊北町田耕) 元治元年11月8日夜、太田家に潜む忠光公は、暗殺者の命令により山田幸八が誘い出し、四恩寺に向かう途中の田耕長瀬の渓谷で待ち伏せしていた刺客に殺される。
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この本宮は、昭和38年(1963)に忠光公百年祭の折に、豊北町により、暗殺された場所近くに建立された。
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境内には、「中山忠光朝臣遭難之處」、「血染めの岩」、辞世とされた「歌碑」などの石碑が置かれている。
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この解説板を読むと一文字間違いがあるのが分る。
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⑨四恩寺跡 (豊北町田耕) 白滝山四恩寺の開基ははっきりしない。
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ここは、忠光公が、太田家から移り潜むために用意された住みかをみて、牢獄のようだといって拒否し、寺の下の大林万次郎家に移ってしまう場所である。 また、最後に忠光公が、山田幸八に誘い出され向おうとした先でもある。
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「四恩寺古蹟」碑 中山公が「此堂宇ニ一時御身ヲ潜メラレシ」と刻まれている。この堂宇の踏み石を台としている。
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また、解体した堂于は集会場として使われているとの情報をもとにその集会場を探してみた。四恩寺近くで地元の人に場所の教示を受けたが、残念ながら解体された堂于ではないことが後に確認できた。 大林家については、四恩寺までの通りの下に家があるのは見ていたのだが、そのとき大林家旧宅と気づかず写真を撮るのを失念してしまった。気づいたときはUターン不可の狭い道を戻っていた途中なので、今回はあきらめることにした。 今回の史跡めぐりでは、多くの地元の人にお世話になりました。 倉光家、三恵寺、名井家、山戸家の方々、地元でないとわからない言い伝えなど、ご教示いただき感謝いたします。 そして何よりも、初めてお会いした伊佐さん、コース選定、車での案内、とても助かりました、有難うございます。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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