これは困った。
井上聞多の妹厚子は、来島又兵衛の長男・森清蔵に嫁いでいたのか、これは知らなかった。
三吉慎蔵-->船越清蔵-->来島又兵衛-->井上聞多となり、慎蔵とは遠いが、毀誉褒貶の分かれる聞多と縁続きになってしまう。
慎蔵はこのことを知っていただろうか?
三吉慎蔵日記に、聞多が初めて登場するのは、
〇元治元年八月九日
「本日ヨリ休戦ナリ
洋人諸台場ヘ巡回ス依テ井上聞多金子蔀諸台場引合ニ付拙者付添被 仰付候事」
四国艦隊が下関に襲来し、長州藩の砲台はことごとく破壊され和議を申し入れた翌日、8/9に沿岸の諸台場を西洋人が実況見分するのに聞多が通訳?として同行し、慎蔵が付き添っている。
少なくとも、聞多の名前が日記に記述されるのはこれが初めてだ。
このあと聞多は、9月25日にいわゆる俗論派の襲撃を受ける。
その傷を癒すために、妹厚子の嫁ぎ先である、来島又兵衛の長男・森清蔵の居る厚保の又兵衛宅へやってくる。
この時はもちろん、既に又兵衛は京都で討ち死にしている。
ブログ「春風狂想曲」によると、山口サビエル記念聖堂の駐車場の端にある来島又兵衛の顕彰碑には、井上馨撰文、野村素介書で、碑文中に井上馨の妹は来島又兵衛の長男・森清蔵の妻と書いてあるらしい。
厚保にある「世外侯養痍隠晦之処」の解説版でも又兵衛の子息とある。
このとき聞多の妹は既に入嫁しているので、少なくとも、8月9日に長府の台場で会ったときは、縁者と知っていた可能性はある。
三吉慎蔵日記で次に井上馨が登場するのは、見落としでなければ明治22年1月である。
慎蔵の長男・米熊はこの年3月に仏伊に留学する。
留学の便宜を、慎蔵は当時農商務大臣の井上馨に相談し頼んでいる。
留学は、ヨーロッパでの養蚕の研究だが、もちろん農商務事業の一環ではある。
ここに、縁故という要素はなかっただろうか?
しかしこれについては明確ではない。日記には、
〇明治二十二年正月六日
「米熊洋行一件ニ付磯部ニテ井上大臣別荘ヘ相談ノ件有之午前上野発ノ汽車ニテ米熊一同出発・・・・」とある。
慎蔵は、6日の休暇届を長府毛利家と北白川宮家に1月4日に出し、当日6日に磯部にいる井上馨に米熊を同行して会いに行き、直接米熊洋行ノ件を相談し、井上馨から快諾を得ている。
その前年から、米熊と馨とは、養蚕の件について接触はしてるので、実力を認められた故とはいえるが、
この件は中間報告として、もう少し調査が必要のようだ。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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