三吉慎蔵のルーツは半島にあり?

平成13年(2001)、明仁上皇は68歳の誕生日記者会見において、翌年の日韓共催ワールドカップの開催にあたり関心事を聞かれ、天皇家百済国と血縁関係があると発言をされた。
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                    桓武天皇桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。」 この韓国とのゆかり発言は、百済が現在の朝鮮のもとになった新羅と同じ民族だとの誤認が根底にあるからというよりも、百済国が半島にあったための言及かもしれない。 僕は、高句麗百済は古代満州の扶余族とよばれたツングース系の民族集団に発していると考えていて、新羅とは別民族と思っている。 ところで、 桓武天皇天平9年(737) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))の生母とは、高野新笠(たかの の にいがさ)のこと。この高野新笠の父が百済系渡来人氏族である和乙継(やまとのおとつぐ)で、百済武寧王の子孫を称している。 明仁上皇が引用した続日本紀平安時代初期に編纂された勅撰史書)によれば、延暦8年(789)12月29日条に、 桓武天皇の母である「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。・・・・・、皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」 とあって、武寧王の子孫であることが記されている。 父の和乙継は、生前の位階・官職は不明だが、光仁天皇即位後の宝亀年間(770 - 781)に高野朝臣と改姓した(ただし続紀に生前の記事はなく、没後の賜姓であった可能性もある)。 母は土師真妹で、桓武天皇即位後の延暦9年(790)に大枝朝臣と改姓した(没後の賜姓)。 延暦8年(789)までに父母ともに死去しており、ともに正一位が追贈されている。 日本書紀に、継体天皇7年(513)「百済太子淳陀薨」とあり、純陁と淳陀が同一人物ではないかと考える学者もいる。ただし、朝鮮側の資料には武寧王の子として純陁、もしくは淳陀に比定できる人物がいないらしく、和氏が武寧王の子孫であるかどうかは疑問であるとの説もある 。 皇室とは別に、百済王室との関係として有名なものとしては、 藤原摂関家の祖である冬嗣の生母である百済永継、周防の守護大名大内氏琳聖太子(りんしょうたいし、生没年不詳)がいる。 和氏は武寧王の子孫と称するが、琳聖太子も同じ武寧王の孫とされる。 琳聖太子は、大内氏の始祖とされる人物で、第26代聖王(聖明王)の第3王子、名は義照という。 15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、琳聖太子大内氏の祖とされ、推古天皇19年(611)に百済から周防国多々良浜山口県防府市)に上陸、聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)(山口市・大内盆地)を賜ったという。 (武寧王聖明王ー) 琳聖太子ー琳龍太子ー阿部太子ー世農太子ー世阿太子ー阿津太子ー大内正恒とつながる。 この琳聖太子を始祖と名乗り始めた大内氏当主は大内義弘。 大内氏は、『李朝実録』によれば、応永6年(1399)に朝鮮に使節を派遣し、倭寇退治の恩賞として朝鮮半島での領地を要求する。領地の要求は却下されるが貿易は認められる。その貿易での利益が大内氏勢力伸長の大きな要因となった。 大内政弘の頃には、大内氏百済系末裔説が知れ渡っており、興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)が記した『大乗院寺社雑事記』の文明4年(1472)の項では、「大内は本来日本人に非ず…或は又高麗人云々」との記述が見える。 始祖としたため、琳聖太子供養塔が山口県山口市大内御堀四丁目の乗福寺に残っている。 ところで、三吉慎蔵の実母・津原かつ子の里は、長府と清末の間にある善勝寺で、かつ子はこのお寺の三女だった。
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善勝寺の開基は道西で、俗称は津原主計頭善勝という。津原山城主二万七千石を領した。 大永7年(1527)10月、勝山城主内藤興盛と青山城主高森正倫両氏の勢力争いに際して、善勝は津田貞輝などとともに、高森氏に加勢して合戦に及んだが、同月25日敗戦し青山城は落城する(里人は「青山くずれ」と語り伝えている)。 善勝は、先に嫡子・兵部善次を失い、更にまた戦いに破れ厭世の思い深く、遂に蓮如上人の直弟子となって道西と法名を賜り、居館を寺として俗名を取って善勝寺と命名し、山号は旧城所在の稲積山をとり、居城跡に寺院を建てる。以来、法灯連綿として今日に至っている。 この津原主計頭善勝は、大内二代長門正恒の三男正興の末裔で、従ってその先祖は琳聖太子になる。 すなわち、 武寧王---琳聖太子ーーー大内二代長門正恒(三男正興)ーーー津原主計頭善勝ーーー三吉慎蔵と、つながってくる。 ただ、 琳聖太子の実在は疑わしく、大内氏の始祖伝承は史実とは思われない。 ほとんどの武家が源氏か平氏を称して自己の権威を高める中で、なぜ大内氏は自らのルーツをわざわざ朝鮮半島に求めたのだろう。それは大内義弘が朝鮮半島との貿易を重視したからと思われる。 従って、三吉慎蔵の先祖も、とりあえず大内氏までとし、琳聖太子は参考としておきたい。 参考:八幡和郎『誤解だらけの韓国史の真実』 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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