今日の史書を訪ねては、「続日本紀」
古代国家が正史として編纂した六つの史書「六国史」のなかで、「日本書紀」に次ぐ2番目の史書。
藤原仲麻呂の発議で編纂され始めたが、記事ではこの「藤原仲麻呂の乱」について書いている。
僕の関心事は、なかでも巻第三十七から第四十の桓武天皇の時代。
桓武天皇
とくに、延暦八年十二月に桓武天皇の実母・高野新笠が皇太后として崩御したときの記載に関心がある。
翌9年正月15日に、大枝山陵に葬られるが、そのあとに出自が書かれている。
延暦九年(790)正月壬子【十五】(延暦八年(789)十二月に附載)
壬午。葬於大枝山陵。皇太后姓和氏。諱新笠。贈正一位乙継之女也。母贈正一位大枝朝臣真妹。后先出自百済武寧王之子純陀太子。皇后容徳淑茂。夙著声誉。天宗高紹天皇竜潜之日。娉而納焉。生今上。早良親王。能登内親王。宝亀年中。改姓為高野朝臣。今上即位。尊為皇太夫人。九年追上尊号。曰皇太后。其百済遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。
皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。・・・・・、皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。
とあって、武寧王の子孫であることが記されている。
父の和乙継は、生前の位階・官職は不明だが、光仁天皇即位後の宝亀年間(770 - 781)に高野朝臣と改姓した(ただし続紀に生前の記事はなく、没後の賜姓であった可能性もある)。
母は土師真妹で、桓武天皇即位後の延暦9年(790)に大枝朝臣と改姓した(没後の賜姓)。
延暦8年(789)までに父母ともに死去しており、ともに正一位が追贈されている。
日本書紀に、継体天皇7年(513)「百済太子淳陀薨」とあり、純陁と淳陀が同一人物ではないかと考える学者もいる。ただし、朝鮮側の資料には武寧王の子として純陁、もしくは淳陀に比定できる人物がいないらしく、和氏が武寧王の子孫であるかどうかは疑問であるとの浮説もある。
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