霊山の墓
個人的に気がかりなことある。
幕末の志士がここに神葬祭で葬られたいと望んだ、京都霊山。
明治になってから整理され、山口関係は一つの区画に墓石が立ち並んでいる。
その中にL字型に整然と並ぶ一角がある。
L字型の中心に船越清蔵守愚の墓を据え、長州各藩士の墓が広がる。
船越清蔵は、霊山で最初に神葬祭で葬られた清末の国学者で、尊皇攘夷論を展開した。三吉慎蔵の縁戚でもある。
船越清蔵の墓の左側には、
安政の大獄のときに清蔵の身を案じた高杉晋作。
清蔵と縁戚に連なる来島又兵衛。
霊山で清蔵を神葬祭で葬った久坂玄瑞。これが霊山で志士が葬られる始めとなる。
上京のおり大津の清蔵の塾を訪ねた松門の寺島忠三郎、入江九一、有吉熊次郎と続く。
右側には、同じく松門の南木四郎、松浦亀太郎などが並んでいる。
ところで、慶応4年秋の時点では、高杉晋作、有吉熊次郎の石柱はまだないのが分かる。
また明治40年時点でも、高杉晋作の石柱はまだない。
船越清蔵の墓は、志士の最初の神葬祭の歴史的意義を考えれば、一番大事にしなければならない墓のはずだが、墓石は剥落し修理もなく、大切に扱われているとはとても思えない。
以前現状の改善を護国神社側に申し入れたが、改善はなにもなされていない。
写真にはないが、5年ほど前より清蔵の墓の前方には、大河ドラマをにらんで高杉晋作の墓前に賽銭箱が置かれもしている。何とかしたいものだ。
京都霊山の霊明神社は、幕末時代から、主に戦死・変死した防長藩士の神葬祭を執り行ってきた。
霊山での神葬祭の始まりは、長州清末藩の国学者・船越清蔵が最初で、霊明神社神主・三世村上丹波源都平(くにひら)の著述『講説稿本』によると、「高倉二条邊ニ竹御所内ニ吉田玄蕃ト申ス人ガ有リマシテ是ガ亦至テ精義勤王之人ニテ有シガ是ガ船越先生之石碑ヲ初メテ當山ニ建テラレマシテ御霊祭リヲ致サレマシタノガ精義ノ神霊ノ祭リ初メナリ」とある。
船越清蔵は、文久2年(1862)8月8日に、萩にて藩主に御進講をした後、故郷に帰る帰途、毒を盛られ死去する。
同年11月18日に、吉田玄蕃(黙)が祭主となり長藩50人程が参詣し萩藩主からも使者が派遣されて神葬祭(但し実葬ではなく、遺物を納めた)を行う。
その神葬祭を、吉田玄蕃に依頼したのが久坂玄瑞。
明治になって、吉田玄蕃がその経緯を書き留めている。
また船越清蔵の祭祀は明治になっても行われている。
船越清蔵13回目の祭祀を明治7年(1874)8月8日の命日に行った記録
ところで、
船越清蔵の霊山墓石をみると、現在霊山に並んでいる他の志士の墓石とはやや異質なのが分る。
ひとつは、墓石が砂岩で、高さが並んでいる他の墓石の半分程しかないこと。
墓石の高さが異なり砂岩であることは、他の墓石より古いことの証左でもある。
ひとつは、他の墓石と異なり、名前の前に「精勇」の文字が加わっていること。
「精勇」の文字については、
吉田玄蕃の明治27年11月の建墓に関する書付によれば、
「戊午年三條右府公より下賜号之二字相加へ 澤主水正宣嘉朝臣筆蹟也」とあることから、
「精勇」の二字を下賜したのは、
「三條右府公」から、安政6年4月(1859)に安政の大獄の際に謹慎処分を受け、同年10月6日に謹慎していた一条寺村で薨去し、文久2年(1862)に右大臣を追贈された三條実萬と分かる。
尊王家として、ペリー来航後に朝廷に密かに出入りし公卿と親しく交わっていた船越清蔵は、安政5年(1858)に三條実萬より生前に「精勇」の二字を頂戴していた。
霊山に眠る志士のなかで、名前に冠しているのは清蔵だけである。
ちなみに墓石の筆跡は、澤主水正宣嘉の手になる。
文久2年8月の死去後、久坂玄瑞の発案で建墓が決まり、文久2年11月頃に墓石を建るに際し、攘夷派公卿の澤宣嘉が「精勇船越守愚之墓」の文字を書いたことになる。
以下、参考のため船越清蔵の年譜を挙げておきます。
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