1年ほど前の「史書を訪ねて」は、ケンペルの『日本誌』だった。
記事は、『日本誌』の中身の紹介とともに、影響を受けたカントの『永久平和のために』や、幕末では熟読して来航したペリーにまで話が及んでいる。
ただ、この史書の成立については触れられていない。
ケンペルは、元禄3年(1690)、オランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在した。その間、元禄4年(1691)と元禄5年(1692)の2年連続して江戸参府を経験し、将軍・徳川綱吉にも謁見した。
箱根にあるケンペル関連碑英国商人バーニーは、ケンペルの『日本誌』の序文を引用し、自然を大切にするようにと、この碑を建てた。
ケンペルは、2年間の滞日中にオランダ通詞・今村源右衛門英生の献身的な協力を得て、精力的に日本についての資料を収集した。これがのちの『日本誌』の 成立の元になっている。
描かれた江戸の地図
今村源右衛門英生は、寛文11年(1671)11月5日に通詞より一段低い家格の内通詞今村市左衛門公能の次男として長崎で生まれた。幼少の時から父親からオランダ語とポルトガル語を学び、少年時代出島のオランダ商館医師に奉公し研鑽を積む。
元禄3年(1690)、20歳でドイツ人医師ケンペルに師事し、鎖国下において日本に関する情報収集という法律違反の手伝いをする。2年に及ぶ奉仕の結果、抜群の語学力と医学・薬学、博物学の知識を獲得する。
この英生の献身によって、ケンペルの名著『日本誌』がのちに生まれるのだが、このことはあまり知られていない。
英生は25歳でオランダ通詞に採用され、たちまち頭角を現し、オランダ貿易の仲介者として中心的役割を果たすようになる。
小通詞を10年、年番、江戸番を三回ずつ経験し、37歳で大通詞、最後は通詞目付にまで昇進した。
新井白石が、布教を目的に屋久島に潜入した司祭シドッチを江戸の切支丹屋にて審問した際、英生が通詞として立ち会っている。この審問で得た内容を白石は『西洋紀聞』としてまとめている。また英生は、日本馬の馬体を改善しようとしていた将軍吉宗の前で、調教師ケイゼルがヨーロッパ馬術を披露したとき、付き添い通訳を務めるなど、当時のオランダ通詞のなかでも抜きんでていた。
この英生の長男・真胤が薩摩藩主・島津重豪に迎えられ薩摩藩士となり、それから数えて4代後に、薩摩藩士・今村明清の三男として関東大震災を予言し地震の神様と呼ばれた、今村明恒が生まれる。
明恒の5男昇に、高祖父母の河島由路・鋹夫妻のひ孫春子が入嫁している。
今村明恒一家、右端が昇
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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