戊午の大獄(安政の大獄)で処罰された者は多いが、逃げのびた者も少なくはない。
大津にいた船越清蔵もその一人だ。
山口県菊川町の清蔵の墓所にて
先日、福井小浜で、梅田雲浜生誕200年記念式典に参加し、
佐々木克氏の講演「梅田雲浜と安政の大獄」と、その後、各専門家によるパネルディスカッションを拝聴してきた。
そのなかで、雲浜と安政の大獄との関係については、おおむね以下の内容だった。
安政5年に始まる大獄において、逮捕と処罰の理由は、大きくはふたつある。
①幕府への異論
公家や諸侯と接触し、幕府の政治や方針などについて論じたこと(幕府批判に限らず将軍継嗣問題も含まれる)。
②戊午の密勅関係
井伊大老批判の内勅に直接間接に接触したこと。
安政の大獄の最初の捕縛者は梅田雲浜だが、
雲浜は、「諸侯・公卿への文通の嫌疑であろう・・・・国家のためにやったことで天地に羞じることはない」といって、
縄をかけられたまま正々堂々と歩いて伏見奉行所に赴く。
刑の確定前に病死しており、戊午の密勅との関係は不明なので、①に関わり、②は不明ということになる。
ちなみに、吉田松陰の嫌疑は、
一つは、御所内に幕府を批判する落文をしたこと。二つ目は、梅田雲浜と密謀を企てたこと。
評定所での取調には、何れも否定し、
怪文書は身に覚えばないとして否定し、
雲浜との関係については、a)時事問題については話していない、b)雲浜は問題のある人物で人を子ども扱いする人だ、c)俗人であり自分は好きではない
と答え、一応嫌疑は晴れる。
以上の話を聞いていて、僕にはいくつか課題が生まれてしまったのだった。
戊午の密勅は水戸藩にだけではなく、安政5年8月に萩藩主毛利慶親にも下されている。
この密勅については、大津で塾を開き尊王攘夷を唱えていた船越清蔵が大きく関わっていた。
清蔵は、以前より公卿・朝廷に密かに出入りし、公卿と誼を通じ、天皇に御進講までしていた。
そんな中、7月5日に中山忠能から密書の使者の人選を求められる。
中山家諸大夫・吉田玄蕃と相謀って、同郷人の甲谷岩熊を推挙する。
密旨は議奏中山・正親三条・久我の3卿によってなり、日付は「南呂初五」すなわち8月5日で、使者甲谷はその5日に長州へ向け京を発った。
20日には萩に到着し、藩主には22日に密旨が届いている。
そして24日に、京都留守居役からも急使が密旨を奉じて萩に到着する。
この奉勅密旨として、8月21日に京都留守居役から急使を仕立てたのは、以下の理由による。
船越清蔵が密使甲谷の途中での異変による萩へ不着の事を慮って、大津から京都へ出て来て中山卿に拝謁し、朝議とその後の京都の形勢を聞いて書き記したものを添付し、萩藩京都留守居役に命じて、急使差し立てとなる。
従って、船越清蔵は、塾・朝廷での幕府批判、長州への戊午の密勅に関わったことで、安政の大獄の逮捕・処罰の対象となる二つの罪に該当した。
吉田松陰が、評定所にて雲浜との関係を糾され、問題の多い人物で人を子ども扱いにする、と述べている。
雲浜のご子孫の梅田昌彦氏にご教示いただいたのだが、
船越清蔵の、松陰に対する態度にも似たようなところがあり、清蔵が大津の邨田柳厓の家に滞在した時の事を、評した文がある。
記述したのは、近江新報の主筆でありのちに大津市長にもなった西川太次郎である。
西川は、池田屋事件で処刑された一族の西川耕蔵の招魂碑を建立もし、埋もれた志士や学者の顕彰に取り組んだ人物として知られる。
「当時大津市民は普通一般の漢学者と思っていた。何ぞ図らんこの人物こそ長州藩士船越清蔵(豊浦)という勤王家ならんとは、
国家多難となるに臨んで邨田家を辞し専ら国事に奔走した、彼は吉田松陰を小僧視した豪傑であった。・・・」
松陰から見て、自分を小僧視したのは、梅田雲浜と船越清蔵とがまずあげられるのだろう。
船越清蔵については今や幕末史から忘れ去られた人物になっている。
今回の梅田雲浜生誕200年記念式典でのお話を拝聴して、
三吉慎蔵とも縁続きであるこの人物を、あらためて調べてみたいと思っている。
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