海舟と西郷の会談

慶応4年の鳥羽伏見の戦いのあとから江戸開城までに、二人の間で書簡の交換や会談は何回かおこなわれる。

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始まりは、山岡鉄太郎に託した西郷吉之助宛て海舟の書簡。

2月11日の江戸城重臣会議において、慶喜は恭順の意を表し、海舟に全権を委ね、自らは翌12日に東叡山大慈院に移転し謹慎した。海舟は、この徳川家の状況を、西郷に書を送り伝えようとする。

そこで、遊撃隊頭取の高橋精三(泥舟)を使者に選ぶが、高橋は慶喜警護のため主君の側を離れることができないので、代わりに義弟の精鋭隊頭・山岡鉄太郎を推挙した。

山岡鉄太郎はまず慶喜の真意を確かめ、3月5日、山岡は駿府の征討大総督府に向かうにあたって海舟邸に立ち寄る。海舟は山岡と初めて会い、このときに、西郷宛ての書を託す。

海舟日記にはこのときのことを、

「旗本・山岡鉄太郎に逢う。一見、その人となりに感ず。同人、申す旨あり、益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむと云う。我これを良しとし、言上を経て、その事を執せしむ。西郷氏へ一書を寄す」とあり、続いて、3月6日付の西郷宛て書簡の内容を記している。

(但し書簡の日付は3月6日とあるが、後日日記を記述した時の書き間違いで、海舟の自筆控えでは3月5日となっている)

「 無偏無党、王道堂々〔蕩々〕矣、今

  官軍、鄙府に逼るといえども、君臣謹んで恭順の道を守るは、我が徳川氏の士民といえども、皇国の一民成るを以てのゆえなり。且つ、皇国当今の形勢、昔時に異り、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり。云々」

以下かなり長文の書簡で、謹慎に至った慶喜の意も汲み、また皇国当今の形勢を諄々と綴っている。

山岡鉄太郎は、この書簡を持って駿府ヘ急行し、3月9日、西郷の宿泊する旅館にて単身、面談を求めた。

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海舟からの使者と聞いて、西郷は山岡と会談し、江戸城攻撃回避として以下の七条件を提示する。

慶喜儀、謹慎恭順の廉を以て、備前藩へ衡預け仰せつけらるべき事

一 城明け渡し申すべき事

一 軍艦残らず相渡すべき事

一 軍器一宇相渡すべき事

一 城内住居の家臣、向島へ移り、慎み罷り在るべき事

慶喜妄挙を助け候面々、厳重に取調べ、謝罪の道、屹度相立つべき事

一 玉石共に砕くの御趣意更にこれなきにつき、鎮定の道相立て、若し暴挙致し候者これあり、手に余り候わば、官軍を以て相鎮むべき事

右の条々実効急速相立ち供わば、徳川氏家名の儀は、寛典の御処置仰せつけらるべく候事

山岡は、他の条件には異を唱えないが、最初の慶喜預けの件は受けられないと誠心誠意に西郷に談判する。山岡の私心のない真摯な態度に感じ入った西郷は折れて、この慶喜預けの件は一旦保留とした。

山岡は、この予備交渉の結果として、上記の条件の書付を持って海舟日記では翌10日に江戸へ帰り、海舟に報告する。

海舟は10日の日記に、

「山岡氏東帰、駿府にて西郷氏へ面談。君上の御意を達し、且、総督府の御内書、御処置の箇条書を乞うて帰れリ。

嗚呼、山岡氏沈勇にして、その識高く、能く君上の英意を演説して残す所なし。尤も以て敬服するに堪えたり」と、交渉結果に満足し山岡を高く評している。

(但し山岡が江戸に帰ってきたのは12日。海舟が後日日記を記述した時に日付を間違えている)

そして、西郷は11日に駿府を発ち、13日には江戸薩摩藩邸に入る。

ときに、江戸城攻撃が予定されていた15日のわずか2日前であった。

一方、東征軍は、11日には東山道先鋒総督参謀の板垣退助八王子駅に到着、12日には同じ参謀・伊地知正治が板橋に入る。13日には東山道先鋒総督・岩倉具定も板橋駅に入り、江戸城の包囲網は完成しつつあった。

西郷は、12日に、海舟宛てに会談を行う書簡を送るとともに、血気にはやる板垣らに対しては、勝らとの交渉が終了するまでは厳に攻撃開始を戒め、勝手に動くなと指令を出している。

「陳れば大総督より江城へ打ち入りの期限、御布令相成り候に付き、定めて御承知相成り居り候事とは存じ奉り候得共、其の内軽挙の儀共これあり候ては、屹と相済まざる事件これあり、静寛院宮様御儀に付き、田安へ御含みのケ条もこれあり、其の上、勝・大久保等の人々も、是非道を立て申すべきと、一向尽力いたし居り候向きも相聞き申し候に付き、此のたびの御親征に、私闘の様相成り候ては相済まされず、玉石相混じわらざる様、御計らいも御座あるべくと存じ奉り候に付き、来る十五日より内には、必ず御動き下され間敷合掌奉り候。自然御承諾の儀と相考えられ居り候得共、遠方懸け隔て居り候て情実相通わず候故、余計の儀ながら、此の段御意を得奉り候」(慶応四年三月十二日付西郷通達)

この緊迫した状況下において、山岡の予備交渉を受けて、江戸開城の会談が行われる。

確認はできていないが、

徳川家側からは、最高責任者である会計総裁・大久保一翁、軍事取扱・勝海舟、山岡鉄太郎、

総督府側からは、参謀・西郷吉之助、村田新八中村半次郎らが同席していたようだ。

第1回交渉は、3月13日に、海舟の思い違いでなければ、高輪の薩摩藩屋敷にて行われる。

この会談は予備的な会談で、静寛院宮(和宮)の処遇問題と、山岡に提示された条件の確認のみで、突っ込んだ話は行われず、若干の質問・応答のみで終了となった。

そして翌日の会談場所と時間を決めて、散会となったのだった。

(但し第1回会談が高輪で行われたのは海舟日記に依る。海舟日記では第2回会談も同所(=高輪)とあり、海舟は後日の日記記述の際に第2回会談場所を高輪と勘違いしている。海舟が、高輪と田町とを混同して全く記憶間違いしているのか否かは確認できていない)

翌14日、海舟以下徳川家側は、約束の田町の薩摩藩蔵屋敷に赴く。

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早く着いたのか、まだ西郷は到着しておらず、海舟は西郷に蔵屋敷に着いたことを書簡に認める。

書簡を読んだ西郷は、早速向かうので待っていただきたいと海舟に返事を出す。

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                   海舟宛て西郷書簡(江戸東京博物館所蔵)

  尊翰拝誦仕候、陳ハ

  唯今田丁迄御来駕

  被成下候段、為御知被下、

  早速罷出候様可仕候間、     

  何卒御待居被下度、此旨 

  御頼迄如此御坐候、頓首

    三月十四日

  〆

  安房守様    西郷吉之助

      拝復

この書簡は文面から、3月14日の第2回会談が田町の蔵屋敷で行われたことを証明する書簡でもある。

そして、第2回交渉が行われたのだった。

3月12日に山岡の持ち帰った書付に記された七条件に付いて、海舟は後日書かれた3月10日の日記に、

大久保一翁、川勝備後、浅野美作、向山隼人輩、諸官に謀りて、御書付に附きて嘆願する所あり」と書いている。

この第2回交渉では、慶喜の処遇、江戸城と武器の引き渡しなどの各条件について、海舟からその検討した結果を回答として提示した。

第一ヶ条

 隠居の上、水戸表へ慎み罷り在り候様仕り度き事

第二ヶ条

 城明け渡しの儀は、手続き取り計り候上、即日田安へ御預け相成り侯様仕り度く候事

第三ヶ条、第四ヶ条

軍艦軍器の儀は残らず取り収め置き、追って寛典の御所置仰せつけられ候節、相当の員数相残し、その余は御引き渡し申し上げ候様仕り度き事

第五ヶ条

城内住居の家臣共、城外へ引き移り、慎み罷り在り候様仕り度き事

第六ヶ条

○○〔慶喜〕妄挙を助け候者共の儀は、格別の御憐憫を以て、御寛典に成し下され、一命に拘わり候様の儀これなき様仕り度き事

 但し万石以上の儀は、本文御寛典の廉にて、朝威〔裁〕を以て仰せつけられ候様仕り度く候事

第七ヶ条

士民鎮定の儀は、精々行き届き候様仕るべく、万一暴挙いたし候者これあり、手に余り候わは、その節改めて相願い申すべく候間、官軍を以て御鎮圧下され候様仕り度き事

右の通り屹度取り計らせ申すべく、尤も寛典御処置の次第、前以て相伺い候えは、士民鎮圧の都合にも相成り候儀につき、右の辺御亮察成し下され、御寛典の御処置の趣、心得させ伺い置き度候事。

海舟から、各条件についての回答を聞いた西郷は、あっさりと、独断で、

総督府に持ち帰って協議したい。従って明日の攻撃は取り止める。」

と答え、江戸総攻撃を中止して、翌15日に駿府に向かうが実際は更に西の京都に向かった。

西郷は3月20日に帰京し、徳川家処分案について朝議が行われる。

そして西郷は朝議の結果を持って戻ると池上本門寺を宿舎とする。

4月9日、海舟と大久保一翁は、池上本門寺にて先鋒総督府を訪ね、陸海軍より預かった嘆願書を提出し城受け渡しの打ち合わせを行う。

また、翌10日、海舟は池上本門寺で城受け渡しの最終打ち合わせを行ったあと、寛永寺徳川慶喜を訪ね、日記ではこれまでの尽力に対し、刀を賜っている。

そして11日、城地武器等引き渡しが無事に完了する

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海舟は、西郷が西南の役を起こし城山で自刃した翌年の明治11年(1878)に、『亡友帖』を発刊している。この『亡友帖』の中に、第2回目の会談の前に、西郷から受け取った書簡を収録している。

このことは海舟にとって、江戸開城を無血で行うことになる西郷との会談がいかに大きな事績だったのかを物語ってもおり、また逆賊となった西郷について改めて世間に向けてその功績を示し顕彰している、と僕には思えてくる。

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参考:『勝海舟全集』 第19巻(勁草書房

    『海舟全集』. 第10巻 (改造社,)

    山岡鉄太郎「西郷氏と応接之記」

    『西郷隆盛全集』第2巻

    江戸東京博物館史料叢書『勝海舟関係資料」文書の部

    松浦玲『勝海舟

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