「戊辰役東軍殉難者慰霊祭」のイベントとして企画された東軍関係の史跡めぐりに参加した。
コースは、
宝台院-->浮月楼-->山岡・西郷会見之地碑-->宝泰寺-->臨済寺-->鉄舟寺-->船宿末廣-->壮士之墓-->清見寺-->座漁荘-->万象寺-->宝台院別院
なかなか盛り沢山の内容で、歴史研究家の佐野明生氏に案内いただいた。郷土の歴史についてきわめて博識で、教えられるところが多々あった。
ありがとうございます。
宝台院
慶喜が水戸から静岡に到着し、最初に謹慎のため留まった寺院で、慶応4年7月23日から翌年9月28日に謹慎が解かれるまで庫裡座敷に滞在した。
庫裡は右側に確認できる
浮月楼
慶喜公は謹慎が解かれると、翌月渋沢栄一が用意した紺屋町元代官屋敷に移る。
近くに東海道鉄道が開通することになりその工事音を嫌って、20年住み慣れた地を離れ、明治21年年3月6日に西草深に転居した。
なお慶喜の住んだ屋敷は明治25年の火災で焼失している。
山岡鉄舟・西郷隆盛会見地の碑慶応4年3月9日に、旧東海道に面した伝馬町松崎源兵衛宅で、鉄舟と隆盛の会談が行われた場所。
この会談は江戸無血開城を決めた江戸での西郷隆盛・勝海舟会談の道筋をつける予備会談となる。
宝泰寺 壮士之墓幕府脱走艦隊の美賀保丸乗組員12名の墓。
美賀保丸は蝦夷に向かい江戸から脱走したが嵐で遭難し銚子沖に漂流する。溺死したり捕らえられて処刑された乗組員の墓を、生き残った美賀保丸乗組員本山漸らが建てた。
美加保丸についての貴重な文献
臨済寺
山門にかかる「大龍山」は慶喜の筆になる。慶喜の扁額「大龍山」
東軍招魂之碑 明治18年3月17日建立
山門をくぐり階段を登った右側にある
慶喜のアルバム
当時の臨済寺を慶喜が写したアルバム
おまけ
家康が今川家に預けられたときにいた部屋
永峰弥吉墓
箱館戦争会計奉行添役高さが2メートルはあり、題字は榎本武揚、墓碑の側面裏側の撰文は勝海舟
鉄舟寺もともとは今の久能山にあった久能寺で、明治維新で荒れ果て、鉄舟が今の地に再興しようとした。ただ鉄舟寺の完成を見ることなく鉄舟は世を去っている。
久能寺は久能山東照宮の「東照大権現」の額のかかった楼門をくぐって左側奥にあった。
船宿末廣晩年の次郎長が明治19年に清水波止場に開業した船宿の復元。日本初の英語塾の舞台になった宿ともいわれている。
壮士之墓 咸臨丸は修理のため清水港に入港し、乗組員は無抵抗の意思を表していた。
三保の領主で御穂神社神官太田健太郎は優勢な新政府軍に味方し赤心隊を組織、明治元年(1868)9月18日に咸臨丸乗組員を襲う。
咸臨丸の乗組員は抵抗する術がなく、斬首された乗組員の遺体は海上に放置された。
7日間会場に浮かび漁の邪魔になるので、領主であるため手が出せなかった村人は金を出して次郎長に遺体の始末を依頼する。
次郎長は向島の砂浜に遺体を埋葬し、その後に三回忌頃に山岡鉄舟により整備され、鉄舟はこの墓地を「壮士の墓」と名付けた。
清見寺家茂の上洛の途次宿舎となった。
まだ海辺が埋め立てられていない頃は、清見寺から、駿河湾、三保の松原、日本平の美しい風景が一望できたと想像できる。
明治後も、明治天皇、大正天皇や北白川宮など、景色を愛でに御出になっている。
清見寺の咸臨丸殉難碑「骨枯松秀」は大鳥圭介の豪額
咸臨丸の悲劇の様子を記している
清見寺の咸臨丸殉難碑(裏側)
座漁荘キングメーカーといわれた西園寺公望の別荘
実物は明治村に移築されている。復元されているのはその80%ほどだが、庭のすぐそばまで海が迫り、清見寺と同じく、駿河湾、三保の松原、日本平の美しい風景が望めた。
座漁荘
昭和20年の風景
庭のすぐ近くが海辺で、三保の松原が遠く一文字に見える。
万象寺
万象寺の、 窪田治朗右衛門(左)、泉太郎(右)父子の墓 治朗右衛門は、新徴組・新選組の母体となった浪士取扱、神奈川奉行、西国郡代を歴任。
泉太郎については、南禅寺金地院所蔵の「戊辰伏見鳥羽之役 東軍戦死者人名録」に、幕臣の2番目として、「正月4日下鳥羽ニテ戦死後大坂ニ於テ火葬遺骨静岡清水港ノ西蓮花寺ニアリ 歩兵頭 窪田備前守 鎮章 泉太郎」とある。
宝台院別院
宝台院別院の旧幕府歩兵隊慰霊碑
慰霊碑は本院から別院に移された。
日光・今市での戦没者が刻まれている。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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