西郷の相棒 山岡鉄舟

昨日、小生が尊敬する人物の一人、山岡鉄舟歴史秘話ヒストリアで取り上げられ、西郷隆盛の相棒として紹介された。
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鉄舟は、西郷率いる討幕軍による江戸総攻撃を巡って、駿府に赴き一人西郷と直談判した。その際に、率直な物言いにより西郷と肝胆相照らし、西郷の信頼を得る。 お互いの腹を割った真摯な話し合いの結果、江戸城無血開城に至る道筋を付けたことが両者共同の大事業といわれ、鉄舟は西郷にとって相棒と評される。 その後、西郷が勝海舟と江戸で2回会談したときは、付きっきりで西郷の護衛をし、会談にも同席した。 このときの西郷の鉄舟という人間への信頼は生涯変わることはなく、後には明治天皇の教育係に鉄舟を推挙することにもつながる。 番組では、話を分かりやすくするため、枝葉は省略しシンプルに話が進んだ。 したがって、 西郷のいる駿府までの西軍陣中の通過を容易にするために、薩摩藩士益満休之助を同行したことは一言も出てこない。 六郷を渡った時、西軍先鋒に対し「朝敵、徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る」との良く知られた言動も描いてはいない。 番組では、180cm以上という大柄の鉄舟が威厳を持って無言で西軍先鋒を圧し、通過する様子が描かれるのみである。 また、神奈川宿の辺りにいた長州隊に対しては、益満を先に「薩摩藩」と名乗って通ったことも略している。 代わりに、マニアックな事件として 薩垂峠の登り口にある望嶽亭と呼ばれた茶屋での鉄舟の難事を簡単に紹介していた。
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この件は、前後を補完すると以下のようになる。 体調を崩した益満とは箱根で別れて、駿府での再会を約して単身西郷のいる駿府に向う。 (但し、益満との別れの場所は諸説ある) 箱根を越えると三島からは沼津、富士、蒲原、由比、薩垂峠、清水、駿府の道順となるが、3月7日夜半、薩垂峠に差し掛かった時に、西軍の先兵から誰何された。 益満がいないと一人で西軍の中を突破できないため、もと来た道を走って引き返す。 西軍の兵は発砲しながら追いかけてくる。 鉄舟は峠の登り口の望嶽亭の前まで逃げてきて、望嶽亭の戸をたたく。 そして開いた戸から転げ入って、「徳川慶喜の名代で、駿府の大総督府を訪ねる者だが、官軍の兵に追われている。大事を成し遂げるためだ、是非とも御家に匿って欲しい。」と、土下座をして懇願する。 主人の松永七郎平は、事情を知り蔵屋敷に匿う。 松永は、懇意の清水の次郎長宛てに「駿府まで無事に送り届けてほしい」との紹介状を書き、蔵座敷で漁師に変装した鉄舟を秘密の隠れ階段からすぐ裏の浜に脱出させ、船で清水へ送り届けた。 あらまし以上の事件だが、これが鉄舟と清水の次郎長が知己となったそもそもの切っ掛けといわれる。 但し、以上の望嶽亭でのエピソードは、伝承であって、それを証明する史料は実はない。 松永七郎平の妻「かく」はこの時33歳だったが、73歳のときに孫に嫁いできた「その」に語り、その話を「その」55歳の時に、18歳で嫁いできた貞世さんに受け継ぎ、今日に至っている。 次郎長とはその後も長く関係が続くが、なかでも有名なのは咸臨丸に関する話。 明治元年9月18日、咸臨丸が清水港で西軍により攻撃を受け、その乗組員の遺体が海上に漂よっていたとき、官軍に遠慮し誰も片づける者がいなかったが、死ねば誰でも仏だ、仏に官軍も賊軍もないといって、次郎長は屍を集め手厚く葬った。 これに感銘した鉄舟は「壮士墓」と銘を書き、次郎長に与える。 その墓と墓標は今も大事に守られている。
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鉄舟は、小生には全く関係がないわけではない。 いくつか気づいたことを挙げてみる。 ○薩摩藩蔵屋敷 江戸城開城を巡り西郷と海舟とが江戸で2回目の会談をしたのが田町の薩摩藩蔵屋敷であり、鉄舟は西郷の護衛を務め、また会談に立ち会った。 小生はこの蔵屋敷のあった場所に、小学校6年から中学3年まで4年間暮らしていたことがある。 これは前に書いたことがある。   https://bakumatusanpo.seesaa.net/article/201009article_3.html   
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   ○三吉慎蔵の宮内省任官 明治10年9月20日に、三吉慎蔵は宮内省御用掛を仰せつかり、北白川宮能久親王御付となったが、その辞令を宮内卿の代理として手渡したのが、大丞山岡鉄太郎だった。 長府毛利家家扶として勤めていた慎蔵に宮内省勤務の辞令が発令された理由はまだわからない。明治10年西南戦争の行方も見えた頃、北白川宮のドイツ留学からの帰朝、慎蔵の人柄などなどいろいろ関係があるのだろうが、慎蔵の性格は鉄舟とよく似ているような気もする。 ○横浜弘明寺 横浜最古の寺といわれる瑞応山蓮華院 弘明寺。 このお寺で先月、母の13回忌を営んだが、部屋には山岡鉄舟が「大悲殿」と書いた大きな扁額がかかっている。この書は鉄舟が明治になって弘明寺より金沢八景を回遊した時に書したもの。 ちなみに、大悲殿とは、人々の悩み苦しみを共に感じ歩む大悲の観世音菩薩を奉るお寺の謂いとか。   弘明寺のHPより: http://www.gumyoji.jp/precinct/index.html
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