今日、韓国ドラマ「大祚榮」の放送が終わった。
日本では過って放送されたことがあるらしいが、地上波ではサンテレビが2011年7月6日から月~金に放送し今日が最終日だった。
幕末とは関係ないが、古代史が趣味のひとつなので、記録しておく。
物語は、大祚榮(テジョヨン)を高句麗の遺臣と設定し、高句麗滅亡から渤海国を建国するまでの大祚榮の一代記を、若干史実を織り交ぜながらフィクションとして描いていく。
物語は、全部で134話もあり日本では考えられないくらい長い歴史ドラマだった。
最近の日本のTVドラマが低調なのは、それなりの理由があるのだろう。
小生にとっては観ていて面白いドラマも多いが、描き方にテンポがなくひねりが足りないドラマも少なくない。
一回毎の完結が多いのはやむを得ないが、次の放送で続きはいったいどうなるのか、続きを観たいという、視聴者の意欲を掻き立てる工夫は足りない気もする。
これは日本人が気ぜわしくなっていて、ゆったりとした気構えや環境が失われてきているからかも知れない。
また一方で、日本のドラマが面白くないのは、史実に沿って描かず、わざわざ面白くないストーリに変更してしまうことにもある。
最近のNHKの大河ドラマがその最たるものだろう。
脚本家、監督の奮起を是非お願いしたいものだ。
韓国ドラマがTV番組で氾濫しているとの大向こうの批判もあるが、韓国ドラマの歴史物はそれでもなかなか面白い。
但し韓国の歴史ドラマが面白いのは、史実に沿っているからではない。むしろ史実からは全く離れている。
日本のドラマと大きく違うのは、会話の中に随所に含蓄のある言葉がちりばめられていることであり、この歳になっても教えられることが多い。
日韓の歴史ドラマを単純に比較することはもちろんできないが、それでも小生の中では韓国に軍配が上がりそうだ。
韓国ドラマ「大祚榮」は、高句麗の復興として渤海国を建国した大祚榮が、高句麗の好太王(広開土王)碑の前でかしこまり、碑に語りかけるシーンで終わる。
「この地の上でまた長い長い時が流れるでしょう。その間もずっと今のように見守ってください。
我らの子孫がこの地をどう守っていくか、誇らしい歴史をいかに継いでいくか、しかと見届け彼らにお伝えください。
一人の夢はただの夢にすぎずとも、万人の夢は必ずや叶うと、決して夢を失うなと、彼らに力強くお伝えください。」
この最後のシーンにあえて好太王碑を登場させているのは、民族の歴史に対する今の韓国人の感情・認識が裏にあるのだろう。
好太王陵の近くにあるこの碑は、長い歴史の中で、様々な民族が入れ替わってきた場所にあるが、今その場所は、中国・吉林省集安市となっている。
高句麗の言葉は、現在の朝鮮半島で使用される朝鮮語とは系統が異なっていることが最近の研究でも確認されているが、朝鮮半島において版図を広げた高氏の句麗を、自分たちの祖先としたい気持ちはわからないでもない。
韓国ドラマでは、どの歴史ドラマも同じだが、高句麗が現在の朝鮮民族とは異なり全く別の民族であることを明示することはない。むしろ、朝鮮民族の偉大さを誇示したいがために、最近の研究成果も無視して、自らの先祖と設定してしまう。
碑は、高句麗の好太王(在位391-412)の業績を称えるために息子の長寿王により414年に建立されたが、1880年(明治13年)になって清の農民により発見された。
高さ約6.34メートル・幅は1.35メートルから約2メートル。
文字は風化により判読不能な箇所もあるが、四面に総計1802の漢字が刻まれている。
正面
右側面
背面
左側面現在では、碑文の風化・劣化を防ぐためにガラスケースで保護されている。
碑文には、4世紀から5世紀にかけての倭や朝鮮半島の様子が記録されるなど、東アジア古代史の重要史料とされているが、その碑文解釈の手掛かりとなる6点の「原石拓本」が1991年ー93年、北京大学図書館などで見つかった。
その大半は、1881年(明治14年)、中国の拓本職人だった李雲従が、碑に石灰が塗布される前に採ったものと考えられている。
拓本には碑から直接取る原石拓本と、拓本を採りやすくするため石灰を塗る石灰拓本があるが、以前から石灰拓本が数多く採られたため石灰が碑面に残った。結果としてもともとの文字の判読を難しくする。
また、碑が中国と北朝鮮の国境に近く直接研究する機会が少なかったため、碑文研究は拓本研究が主流になっている。
その意味では、石灰塗布以前の原石拓本は、重要な意味を持っていた。
発見されてから100を超える拓本の存在があり、刻まれた文字と、その内容の解釈について、幾多の議論・論争があった。
大日本帝国陸軍による改竄・捏造説も一時期あったが、1881年(明治14年)の現在最古の拓本と捏造とされた酒匂本とが完全に一致したことで、20年以上続いてきた捏造論争には決着がつき、捏造説は完全に否定されている。
碑文の内容だが、
三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。少し古いが王健群氏の釈文は以下の通り
但し解釈については、今現在でも、日本と韓国・朝鮮で大きな違いが存在している。
主な解釈の違いは倭に関する記述で、いわゆる辛卯年条といわれる。
碑文のうち、欠損により判別の出来ない記述のある二段目の部分(第一面の8行目から9行目)
「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民」
の解釈がしばしば議論の対象となっている。
中国では歴史学者耿鐵華などの見解で、[海]の偏旁がはみ出し過ぎて他の字体とつり合いが取れてない事から、実際は[毎]ではないかとする意見もある。
韓国ドラマの中に出てくる碑文の文字を読めば、現在の韓国の一般的な釈文が分かるはずなのだが、
今回のTVドラマでは、海とみなしている。左から3行目下から4字目
また、「破百殘■■新」の部分は、「破西殘大水王」と読める。これは初めて目にした
1)日本の学界による解釈
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
百残(百済)・新羅は舊(もと)これ屬民なり。由來朝貢す。
而(しか)るに倭は辛卯の年を以って渡海して來り百残(百済)
加羅・新羅を破り以って臣民と爲す。
そもそも新羅・百済は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を
破り、臣民となしてしまった。
この解釈は、「4世紀、倭はすでに統一国家を形成し、朝鮮半島まで進出していた」という古代史観を裏付ける重要な根拠となる。
2)韓国の学界による解釈
韓国学会では好太王碑は好太王の高句麗の業績のためにつくられており、好太王の業績を礼賛する碑に倭が主語となって百残、加羅、新羅を破り臣民としたと記述されるのは間違えていると主張し、以下のような解釈が韓国学会の定説となっている。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民
百残(百済)・新羅は舊(もと)これ屬民なり。由來朝貢す。
而(しか)るに倭は辛卯の年を以って來り、渡海して百残(百済)
を破り、新羅を救い以って臣民と爲す。
新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、
倭 が辛卯年(391年)に来たので(高句麗は)海を渡って百残を
破り、新羅を救って臣民とした。
しかし、韓国学界の解釈は主語の変化が多く、他の史書との整合性や文章の前後の繋がりが乏しいことなどから批判もなされている。
参考:Wikipedia 好太王碑、 読売新聞1985年1月14日、朝日新聞1994年6月18日
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