阪神淡路大震災の日、宝塚にある旧街道を歩いてきた。
17年前の震災では、小生の住む宝塚も被害が大きく、近くにある旧街道沿いの昔の小浜(こはま)宿や旧米谷(まいたに)村のあたりも被害が少なくなかった。
小浜は、
15世紀末頃に小浜庄として開かれたらしく、有馬街道、西宮街道、京伏見街道の3つの街道が交差する場所となった。
大坂から伊丹を通り、湯山(有馬)に至る湯治の道としての有馬街道、西宮から伊孑志(いそし)の渡しで武庫川を渡り、酒や米を運ぶ西宮街道(馬街道)、京都・伏見から山崎を通り瀬川半町や加茂を経て入ってくる京伏見街道などの道筋が入っていた。
小浜宿全体。 左は南、右が北、下は東
そのため、江戸幕府から交通の要衝として重視され番所が置かれた。
小浜宿資料館には、番所の前に立てられた抜け荷の禁止や駄賃を定めた制札(幕府の御定書)が残っている。
番所のあった場所にある 再製した各種の制札
300年前の制札
虫が食い、角野部だけが浮彫のように残っている
小浜の人々の主な生業は、馬借・問屋・茶屋・旅籠などで、専業農家はほとんどなかったらしい。
酒造りの名所としても知られ、井原西鶴は「西鶴俗つれつれ」のなかで、名酒の産地として小浜の名をあげている。
また大工の町としても知られており、大工の組として「小浜組」が組織された。
幕末期では、大工の棟梁西村則周は戊辰戦争後、戦乱で壊れた京都御所蛤御門の再建の棟梁を務めるなど、名大工を生み出している。
小浜組の御所出入鑑札
西村則周の墓、台に小浜組の名が読める
小浜宿に隣接して、有馬街道沿いに旧米谷村がある。
摂津国川辺郡米谷村の庄屋を代々務めた和田家の旧宅は、推定で築350年以上で、摂津・丹波型と呼ばれる特色を持ち、宝塚市に現存する建物で最も古い。
庄屋から、明治期は戸長へ
しかし震災で建物が半壊し、母屋と土蔵は翌年、宝塚市の有形文化財に指定され、約590㎡の土地とともに市に寄贈された。
宝塚市は建物を1億円以上の費用をかけ修復した後、「市立歴史民俗資料館旧和田家住宅」として公開している。
また、この時、同時に蔵の中にあった1633年以降の古文書4,200点も市に寄贈された。
その後、この古文書を読み解く会が発足して、活発に活動している。
この有馬街道は、中山寺や有馬温泉もあり、幕末期にも多くの人が往来している。
その一人が河井継之助。
安政6年(1859)に備中松山藩の山田方谷を訪ねたが、西国遊学の旅の出来事を「塵壺」という旅行記に残している。
それによると、7月9日に大坂を出立し、神崎、伊丹、(小浜)、中山、生瀬に至る様子が記されている。
「7月9日 晴
(伊丹ノ酒屋、剣ヒシ始大家アリ、千石、二千石も一間ニて作と云、ナタニハ不及と)不心切なる宿之ため、洗濯も不出来、終昼時前迄待て大坂を立、十三川ヲ渡、神埼・伊丹ヲ過て、中山之観音江参リ、何方ニても九日十日観音之寄会とか云て、其群集盛なり、尤大坂之人信向之様子なり、裏之山江上り、四方を見ニ、直ニ城ヲ見渡し、市中も不残、尼崎之城ならん、六甲山之はつれニ当り、海中之帆も明らか、好晴ならバ伏見迄もと思程之処なり、生瀬ニ宿す」
この日記によると、継之助は
不親切でサービスが悪く洗濯もできなかった大坂の宿をやっと昼前に立ち、十三川を渡り、神埼から伊丹、(小浜)を通って中山寺に来ると、9日・10日の観音参りの人で一杯、大坂の人の信仰のようだ。
裏山に登って四方を見ると、城も市中も残らず見える。城は尼崎城のようだ。ここは六甲山のはずれになるが、海上の帆もよく見える。快晴ならば伏見まで見えるのではないかと思えるほどだ。
今晩は生瀬に宿泊する。
継之助は、小浜宿を過ぎてすぐ、庄屋の和田家の前を通っているにちがいない。
この和田家の所蔵していた古文書に、幕末の出来事、立ち寄った人たちのことが書いてないか、 興味が尽きない。
この春から、震災を契機に寄贈された古文書を読む会に参加したいと思っている。
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