二人の勇士

英公使パークス襲撃事件とは関係はないが、この事件からいつも想起することがある。 林田衛太郎と三枝蓊は、公使一行を護衛していた騎馬兵12名と第九連隊第二大隊分遣隊を始め前後も含め大勢の守備兵の中へたった二人で襲撃を敢行した。これとよく似た二人だけの突入襲撃事件が、同じ慶應4年に京都から遠く離れた東北で半年ほど後に起きている。
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二本松藩青山助之丞山岡栄治による薩摩軍に対する突入だが、昭和10年11月30日(土)東京朝日新聞に掲載された記事、佐藤利雄「二本松敗衂秘話」から抜粋すると、 「七月二十九日(明治元年)の早朝。西軍の本隊は薩州、土州、彦根、大垣、忍、館林、黒羽の七藩に三春の響導隊、その兵力三千、堂々と奥羽街道を北進してきた。 これに対して二本松藩兵は僅かに三個小隊と少年隊二十数名からなる二百名足らずの兵力が大壇口に配備されているに過ぎなかった。 ・ ・ 最も奮戦したのは木村銃太郎の率いる二十数名の少年隊だった・・・・・・・・     大壇口戦場地跡にある、隊長木村銃太郎戦死地の碑
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衆寡敵せず遂に大壇口も敗れ、最後まで死守した少年隊もちりぢりになってしまったが、この時可憐な少年達を敵の尾撃から救ったものは実に青山、山岡の二人だった。 彼等二勇士に関しては興味のある挿話がある。 明治三十一年五月末日。折から陸軍都督府幹部演習統監として東北地方に在った野津大将は、三十年前の大壇口激戦を思い出して、感慨無量なるものがあった。
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早速安達郡長冨田氏を旅舎に招いて、 『実は我輩は戊辰の役の際、官軍に属して征討軍に参加した者だが、此の先の大壇口で戊辰戦争中第一の激戦があった。 薩兵一個大隊が逸見十郎太に率いられて奥羽街道を北進してくると突如敵軍は砲列を布して激撃した。 敵は地の利を得、おまけに射撃が頗る正確で前進を阻碍された。 そこで遠く軍を迂回させて敵の両側面を衝き、遂に撃退させた。 敵は全く退却したので隊伍を整へず街道を前進すると、突如道傍の茶屋から二人の壮士が躍り出て、真向に大太刀を振翳して遮二無二切り込んで来た。矢庭に九人程斬り倒され、貴島も我輩も(共に小隊長格)負傷した。 折角勝ち誇った我が薩州勢が一時後退した程で、敵ながら天晴、誠に敵軍に取っては第一の殊勲者だった。どうかこの事を後世へ伝えたいと思うから、二名の氏名、伝記などを探って呉れまいか』 と懇切に依頼した。 調査の結果、勇士は青山助之丞山岡栄治と判明し、・・郡長が大将を訪ねると、 『ヤア、御苦労々々々。我輩は戊辰、西南、日清等各戦役に参加して随分接戦もしたが、何れ抜刀して敵陣に斬り込む程の者は腕に覚えの剛の者に相違ない。 それでも多少逆上するものとみえて、足元は後ろに在っても頭と手は前に出て多くは鍔元で敵を斬り勝ちになるが、此の二人は微塵も狼狽した斬り様をしないで皆切尖を以て一刀に斬り下げた。 これは容易ならざる剣道の達人でなければ出来ない芸当で、且つ肝っ魂が如何に鍛錬されていたか判らない。』 と激賞した。 それもその筈、彼等二勇士は共に小野派一刀流の達人、青山助之丞は二十一歳、十七歳で既に水戸の役に出陣して腕を磨いた剣士。 山岡栄治は二十六歳、これまた藩随一の剣客だった。 彼等は勇猛無比の薩軍めがけて突入、立ちどころに十二人も斬り捲ったが遂に壮烈極まる斬死を遂げてしまった。 大将の傷は頭部、足部その他数ヶ所で中々の重創だった。 二勇士の悲壮な斬込は大壇敗衂戦最後の華だが、一方自分に重傷を負はせた敵の腕前を激賞し、且つその建碑に尽力して資を贈り、「二勇士戦死之処」と書いた題額まで贈った大将の行動に至っては、武人の心境、実に奥床しい極みではあるまいか。」 青山助之丞の戦死は銃撃によるものなので、ここだけ誤っているが、全体的にはほぼ正確な記事といってよい。 明治33年7月、33周年に建立された「二勇士戦死之処」記念碑
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野津道貫は、人柄を表す歌を残している うつ人も うたるる人もあわれなり ともにみくにの民とおもえば 上記東京朝日新聞の記事は、青山助之丞御子孫より紹介を受けた。 なお、『元帥公爵大山巌』にも、野津道貫大将談話として、富田善吾氏談がコラムに記述あり。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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