ディアナ号の大砲

最近、幕末のロシア軍艦ディアナ号の名前をよく目にする。 ディアナ号は、幕末に日露交渉のためにプチャーチン提督一行を乗せて日本にやって来たが、交渉場所の下田で東海沖地震に遭い、発生した津波で被害を被る。
画像
大砲52門などを揚陸したあと、クリミヤ戦争で英仏艦隊が日本沿岸に出没していたことから、天然の要害の戸田村で隠れて修理するために下田から移動中の安政元年(1854)12月2日に駿河湾に沈んでしまう。 そのため、ロシア人の帰国船を戸田村で急遽建造することになる。
画像
幸運なことに、ディアナ号沈没の際に持ち出した荷物の中に、ロシア海軍省機関誌「海事集録」があり、その中の1849年第一号の「海事集録」にスクーナー・オープライト号の設計図が載っていた。 このヨットの図版をもとに技術将校のモジャイスキー海軍大尉を中心に、日本側から石原藤蔵が参加して、55日を要して設計が行われた。 モジャイスキーの描いた川路聖謨
画像
造船作業には、上田寅吉を始め戸田村の7人の船大工棟梁が選ばれ、他にも下河津の鈴木長吉等が加わり、作業員だけで200人近くが働いた。
画像
75㌧のオーブライト号をモデルに日露共同で完成したやや大型の2本マストのスクーナー型帆船は、ヘダ号と名付けられ、幕末では和船にはない竜骨をそなえた西洋式造船の第一号となる。
画像
このあとロシア人技術者により移転された洋式造船技術にもとづき、同じ型の船が上田寅吉等により6隻建造される。 出来上ったヘダ号に乗って、安政2年(1855)3月22日に乗組員の一部のプチャーチン提督と47人が帰国の途につく。 プチャーチンを乗せ帰国を急ぐスクーナ船ヘダ号
画像
秋にペテルブルグに着いたプチャーチン提督は、皇帝への報告に際し、ロシア使節団が日本で世話になった様子を語り、下田に残してきたディアナ号の大砲を日本政府に贈っていただきたいと、上申する。 翌安政3年(1856)10月10日、日露和親条約批准のため、プチャーチンの副官だったポシュート海軍大佐が全権として下田に来航する。この時、修理し内装も洋風に仕立て直したヘダ号を伴ってきた。 ヘダ号返還と批准書の交換は11月10日に行われたが、この時にディアナ号の大砲52門が航海用具と共に日本側に贈られた。 津波で被害に遭い破損した時に下田で揚陸した武器のうち、日本政府に贈られた大砲の明細は「海軍歴史」によれば以下のとおり。 一、鉄製六拾斤長加農 四  挺 一、同  三拾斤短加農 十八挺 一、同  弐拾斤長加農 三十挺     〆五拾弐挺 その後、これら52門の大砲はどうなったのか。杳として行方が分からない。 霊山歴史博物館の2012年春の企画展、 「幕末資料・新収蔵品展」で展示されていた、旧幕府軍が描いたとされる「弁天岬台場の図」には、80斤砲1門、24斤砲6門が描かれていた。 弁天岬台場は安政3年(1856)から築造され元治元年(1864)に完成する。、函館市立博物館の解説によれば、「箱館奉行所はディアナ号の大砲を弁天岬台場に配備したい旨を幕府に上申している。このことからおそらく、描かれている大砲はおそらくディアナ号のものと思われる。」 「旧幕府」第十二号「函館戦史」の明治2年(1869)5月4日に、「台場ニテハ昨夜何者トモ知ラス二十四斤長加農六挺へ火門針ヲ鎖シ八十斤一挺ヘ弾二発分ヲ込メヲキシカハ・・・」とある。また須藤隆仙「総覧 箱館戦争」では、「(明治2年5月)三日夜、脱走弁天台場砲兵取締斎藤順三郎は、鍛冶職鏑木連蔵らと通じ、雨夜に弁天台場の砲七門のうち六問の発火口にくぎ打ちをさせた・・・」との記述がある。参考文献が記されていないのが残念だが、砲の数は合っている。 但し、「海軍歴史」の明細が正しいとすれば、80斤砲、24斤砲はディアナ号のものではない。 箱館奉行所の上申書や、弁天岬台場配備を決定する文書があるとのことで、北海道庁HPにある文書館デジタルアーカイブ箱館奉行所文書一覧を探したが、まだ見つけていない。 この上申書に、具体的な砲の種類と門数が指定されているかは知らないが、函館市立博物館の図録「五稜郭箱館戦争」には、「弁天岬台場にはロシアから寄贈された大砲24門などが設置されました。」との記述がある。 したがって、何らかの史料で24門の実際の設置が証明された場合、設置したはずの24門などが、旧幕府軍の降伏直前には7門しか残っていないことになる。 靖国神社遊就館の台帳によると、 明治43年10月7日の項に、「露国舶用製砲身2門寄贈」とある。明治43年9月函館公園内に置かれていたディアナ号の大砲4門のうち2門が遊就館に寄贈された、と補足されている。 但し今現在は靖国会館前にはディアナ号の砲として1門が置かれているのみで、昭和18年の金属供出の時の記録にも供出したとの記録はなく、1門は行方不明のままとなっている。
画像
但し、遊就館の砲は、砲身に英国王室の紋章が施されていることから、ディアナ号の砲でないことは確実なので、結局、遊就館に寄贈した砲については、今現在では行方不明の状態になっているとみてよい。 これは、①函館公園に置かれていたのはディアナ号の砲ではなかった、②ディアナ号の砲であるが、遊就館に寄贈された2門とも行方不明となった(今現在の砲はどこかで入れ違っってしまった)、と考えられる。 現在の砲は、英国王室のマークがあることから、英国から寄贈された蟠龍の備砲と推定することもできる。 但し、英国より寄贈された小型でスマートな快速遊覧船を、幕府は蟠龍と命名し砲艦に改造したのであり、もともと砲が積んであったのかはまだ確認できていない。 ところで、弁天岬台場の砲の何門かは、脱走軍が回天に移して使用し、回天が新政府軍に撃破された時に砲とともに海底に沈んだ。後年その中の4門を引揚げ函館公園に陳列し、明治43年に至り陸軍省の要求で、その内の2門を東京遊就館に贈った、との話をよく聞く。 回天の備砲は、「回天艦長 甲賀源吾伝」によれば、「左右英国製ブレッケレー四十斤砲五挺づゝ銅製十五ドイムのホイッスル一挺づゝ、前面に五十斤長加農砲一挺を備へ、ホイッスルを除く外は孰れも施條砲なりき」とある。 従って、砲の種類からみても、「海軍歴史」に従えば、回天には弁天岬台場にあったというディアナ号の砲は移していないことになる。 ところで、回天は日々の戦闘では、左右両舷の砲を片舷一所に集めてその能力を倍にして戦っている。砲の移動に初めこそ1時間余りもかかったが、訓練で15分に縮めることができた、と書かれている。 また、運転が効かなって浮き台場として活用される最後の場面では、「損害極めて大にして運転する能はざるに至る。因て之を浮台場に比し湾内適宜の洲に乗り上げ、砲十三門を悉く片舷に備へ、再戦を待つ。」とあり、砲13門で戦っている。 この13門の何門かは、戦力増強のためかあるいは砲の取り換えのために弁天岬台場から移された可能性は残る。その場合は、弁天岬台場にあったディアナ号以外の砲となる。未見だが、史料での確認が必要になる。 今年の2月に横須賀の三笠記念艦を訪れる機会があった。 そこに、ディアナ号の砲が展示されている。設置は昭和62年5月で、この砲は「米海軍横須賀基地に保存されていた・・・姉妹と思われる大砲が遊就館に保存されています。」とある。
画像
なるほど、砲身の口径、長さはほぼ同じだが、ただ遊就館の大砲が英国製であり、この三笠記念館の砲にはロシア国の紋章がない。それが問題になる。 インターネットで探してみると、 広島県福山市駅家町大字倉光617−1にある「倉光天神社」に、かつて「ディアナ砲」が奉納されていたことが分かる。 k​t​g​w​k​u​jさんのブログ http://blogs.yahoo.co.jp/ktgw314/archive/2011/11/18?m=lc ディアナ号の砲身が奉納され、その銘板には、「砲身有露国之文字及紋章」と明確に記されている。但しこの砲は金属供出され今はない。 k​t​g​w​k​u​jさんのブログより拝借
画像
画像
また、すでに函館日口交流史研究会にて、「会報」No.1 1996.8.21 研究会報告として、日口交渉秘話より 追跡!『ディアナ号』の艦載砲という立派な報告がなされている。 http://moct.web.infoseek.co.jp/blog/archives/cat1/01/index.html ただ、「配備する砲が無くディアナの30斤砲24挺を幕府に要求した。しかし、日本が寄贈を受けた30斤砲は18挺だったため別性能砲が追加されたらしい。また榎本艦隊の回天丸は、幾挺かを江戸で搭載し箱館海戦で弁天岬台場付近に沈没した。」 別性能の砲を追加したこと、回天は砲のいくつかを江戸で搭載したことは、まだ史料で確認できていないが、函館奉行所文久1年(1861)頃に砲を要求しその砲を設置する弁天岬台場は元治元年(1864)に完成しているのに、慶応元年(1865)に購入した回天がその後江戸で砲を搭載しているのは何か府に落ちないものを感じる。 また、これは未見だが、4・5年前に、横浜のある倉庫でディアナ号の砲が1門が見つかったとの新聞報道があったとの由、新聞記事を探してみようと思っている。 なお、日本に返還されたヘダ号だが、ジョン万次郎が捕鯨船として小笠原諸島までいこうとしたが暴風雨により損傷し航海は中止になったことなどはわかっているが、その後の詳細はわかっていない。 参考:k​t​g​w​k​u​jさんのブログ 、函館日口交流史研究会HP 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
幕末・明治時代(日本史)ランキング 絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です 励みになりますので、できれば以下のバナーもどうぞ にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村