先日、京都の維新を考える会の4月例会で行われた黒谷探墓に参加し、金戒光明寺に葬られている方々のお墓を巡ってきた。
黒谷の南側にある岡崎神社に10時半に集合し、考える会会員の吉平さんのガイドで、東墓地、会津墓地、北墓地の順に、昼食をはさみ、14時半までに効率よく回ることができた。
今回は、それぞれのお墓の前で、よく知っている人がその人物について解説するという趣向。
小生は会津墓地で概略を説明し、赤松小三郎について墓石の変遷と人物について解説した。
主に回った墓地を、冗長になるが以下記録のため記す。
1)東墓地
山中鹿之助幸盛
幸盛を祀る五輪塔。実際の墓所は鳥取鹿野の幸盛寺にある。
熊谷直実と平敦盛
法然上人御廟の前に相対して、五輪塔がある。
直実は50歳を過ぎて黒谷の法然上人のもとで出家し、蓮生房と称し、黒谷の草庵で往生する。平敦盛
近江屋井口新助
龍馬暗殺後、弟小三郎とともに国事に奔走、鳥羽伏見の戦いには薩摩・土佐両藩のため軍資糧食を調達した。
もともと近江屋の菩提寺は別にあったが、体をこわし黒谷で療養していたこともあり、本人の意思で黒谷に葬られた。その際、菩提寺から過去帳を移し先祖の墓も改葬している。
高倉永秀、永祐
永秀は、竹内式部が王政復古を策したとき皇権恢復に勤める。永祐は、孝明天皇に仕え、戊辰の役では北陸道鎮撫総督を務めた。残念ながら墓は時間がなく未見のまま。
桑原隲蔵、武夫
明治・大正・昭和期の東洋史学者と、その子武夫・フランス文学者
一笑居士
ユニークな居士号をもつ人物。何者かは調査未了
高木文平
幕末・明治期の旗本代官。京都商工会議所初代会長。疏水の主任技師田辺朔朗とともに渡米し水力発電の研究を行う。
八橋検校
江戸前期の箏曲家、京銘菓「八ツ橋」は同検校の名からつけたと言われる
今井以幽
江戸後期・明治初期の萩藩御用商人、太郎左衛門と称し、長門毛利家に仕え、京都に来て大黒屋今井家を継ぐ
山崎闇斎
江戸前期の儒者。会津保科正之などが礼を厚くして師事。竹内式部、山県大弐、梅田雲浜などがこの学統から出た。
竹内栖鳳
明治・大正・昭和期の日本画家。四条派の伝統的手法を近代化し、その練達せる技法において、近代希れにみる作家。
池田屋弥兵衛
池田屋騒動の時の主人池田屋惣兵衛に連なる
赤松小三郎
幕末期の洋式兵学者
2)会津墓地
今回のお墓めぐりに用意された資料には、会津墓地に眠る全お墓の氏名が記されているが、時間がないため、全部は回れなかった。大量にあるため個別のお墓の写真は省略する。
3)北墓地
碓井小三郎
明治・大正期の郷土史家
千種有功、有文
有功
江戸後期の公卿、歌人
有文
公卿、和宮降嫁問題で賛成し、和宮東下の際、岩倉具視を随員として宮を関東にお送りした
徳大寺公純
関白鷹司政通の子。幕府から朝廷における悪謀画策の代表者の一人に数えられ、また和宮降嫁に反対したため幕府の圧迫を受け、万延元年議奏を辞任。後、公武合体派による朝議に参画。
四男に西園寺公望がいる。
北垣国道
大和五条の義挙、但馬生野の義挙に力を添えたが破れる。戊辰の役では西園寺鎮撫総督にしたがって山陰諸藩を巡察し越後に赴く。京都府知事のとき琵琶湖疏水を完成させる。
今回の黒谷探墓は、時間の都合でもちろんすべてを回ることなどできないが、頂いた資料が詳細にわたるため、今後のお墓めぐりには大変参考になります。ありがとうございました。
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