一昨日、春の陽気に誘われて京都の史跡巡りをしてきた。
どこを巡るとも計画せずに家を出て、阪急電車終点の四条で降りる。
縄手通りを越えてすぐのいつもの店で、120円のみそ焼き団子2個で腹ごしらえしてから、まだ巡っていない縄手通りに関係のある、パークス襲撃事件のコースを歩くことにした。
慶応4年2月30日(1868年3月23日)に起きたこの事件は、新政府にとっては、神戸事件・堺事件と並び、いやそれ以上に京都市内で起きた外交上も重大な事件であった。
事件のあらましを知る上での関係史料は多いが、警衛にあたっていた肥後藩からの当日の第一報が簡潔でよい。
肥後藩上申書
今晦日、英人参
内之儀被
仰出、午刻頃知恩院旅館新門ヲ出候ニ付、三藩警衛之
人数ハ前後ニ罷在候処、通行之途中、新橋通縄手辺ニ
於テ狼藉者有之、英人ヘ手ヲ負セ候ニ付、右参
内之儀ハ見合、同所ヨリ旅館ヘ引返候由申出候ニ付、
此段不閣御届申上候、以上、
細川右京大夫内
二月晦日 青山源右衛門
(内国事務局叢書より)
事件直後、パークス一行は現場の縄手辺から、後藤象二郎の命を受けた五代才助に導かれて、もと来た道を宿泊所の知恩院まで戻っている。
歩くコースは往路だけの、知恩院-->知恩院道-->知恩院新門-->新橋通り-->縄手までとした。
まず、パークスが宿泊していた総本山知恩院を目指す。
三門を入ってすぐ、映画「ラストサムライ」で撮影に使用された、長い階段「男坂」を登る。
知恩院では、元祖法然上人八百年大遠忌記念特別事業の一つとして、平成23年12月から御影堂の本格的修理工事が始まっていた。
御影堂は、350年以上前の寛永年間に徳川家光の命により再建されて以来、大がかりな修理が行われていないため、半解体を伴う大修理を行う計画のようで、完成は平成30年度末まで実に8年間もかかるらしい。
「男坂」を降りて三門に戻り、パークス一行が乗馬や籠で通った知恩院道を歩く。
一行は知恩院道を通り新門に到る
隊列の順序は、英国外交往復文書によれば、( )は小生が補うと、
公使館の衛兵監督(ピーコック警部)と、(各国公使応接掛の)中井弘蔵の先導で(12名の着飾った)公使館付き騎馬護衛兵が先頭を行き、パークス公使と後藤象次郎が続き、ついでアーネスト・サトウの後ろに、ブラッドショー中尉、ブルース中尉に率いられた第九連隊(第二大隊分遣隊)が続く。更にその後ろに(馬が足を痛めていた)ミッドフォードが籠に乗り、公使館付医官のウィリスと、二人の英国海軍医官ボルスとライディディンクス(と海軍士官3名)が続いた。
縦隊については記述がないが、二人が先導し、連隊も二人が率いているので二列縦隊と思われる。
この隊列の順序については、ミッドフォードの「英国外交官の見た幕末維新」では、若干違いがある。
後藤と中井はパークス公使、サトウの後ろに位置している。
またサトウの「一外交官の見た明治維新」では、ウィリスの後に、J.J.エンスリーの名を揚げる。
また「遠い崖」では、「第九連隊分遣隊、それから駕籠に乗ったウィルス、エンスリー、ミッドフォードの三人」とあり、原文を見ていないので不明だが、籠に乗っているのはウィルス一人(または三人とも読める)の表現がある。
ミッドフォード本人が「自分だけ籠に乗り」といい、サトウも「一外交官の見た明治維新」では「駕籠に乗ったミッドフォード」の記述で一人と明確に言っているので、「遠い崖」は翻訳上の誤りかと思われる。
新門から見た新橋通り。
今は雑居ビルが立ち並び飲み屋街となっている。明治以後に、道幅は半分ほどに狭まってしまった。
新橋通りをしばらく進むと、右側に白虎隊の会の会員でもある島原輪違屋司太夫の「こったいの店 司」の前を通る。
新橋通りの由来になった白川にかかる橋をこれから渡る。
ここは石畳の道でお茶屋が並ぶ。
このあたりは狭いが京都らしい町並が続く
当時の日本側の警衛は以下のようになっていた。
パークス一行の警衛の方法は、行列の前後を固めて一緒に移動するもの以外に、止宿先と隊列が移動する道筋を、各藩が受け場を分けて警衛していた。
紀州藩隊長と他藩10藩共同上申書には、知恩院の止宿先の近辺は紀州藩が昼夜廻番巡邏しており、行列の知恩院から皇居までの往還の道筋は、各藩申し合わせ、11藩で持ち場を分けて警衛した。
手広き場所なので辻々も多く自然と各藩入り混じることもあるが、持場は決まっていて、現場近くは、
往路は新橋通辺は山崎藩本多肥後守隊、三条通境町通りが岡山新田藩池田丹波守隊、
帰路は、三条大橋辺は臼杵藩稲葉右京亮隊、縄手新門前は紀州藩紀伊中納言隊としている。
従って、襲撃があった場所近辺は、往路は山崎藩、帰路は紀州藩の受け持ち場であった。
山崎藩隊長小野源太夫の上申書によれば、小藩故に少人数だが新橋通りの辻々で警衛し、隊長は新橋通りの中ほど(おそらく一番広い新橋のあたりに)にいて、辻々を巡見していた。結果的に新橋通りは英人は無事通過したと上申する。
ただ、新橋通りを過ぎてから縄手通りの警衛が何となくあいまいで、襲撃者はよくその隙をついたといえそうだ。
新橋通りの端は縄手通りにぶつかる。
新橋通りと縄手通りの接点。隊列は右の新橋通りから出てきて角を右に回り縄手通りに入る。縄手通りは、先に新三軒町、五軒町があって、三条大橋へと続く。
坂田諸遠偏「英仏蘭三公使戊辰京都参朝記聞」の「暴徒襲撃実地略図」によれば、行列の先頭が縄手通りを進み三条大橋付近の五軒町に差し掛かったところで、襲撃が行われた。戦闘の場所は、新橋通りと縄手通りの交差点のあたりから五軒町の手前の新三軒町までの間。
仏紙「ル・モンド・イリュストレ」に掲載された事件の様子
襲撃者はどこから来たのだろうか?
巡邏諸藩上申書は、「新橋通縄手筋へ通掛候処、北方方ヨリ帯刀之者二人計罷越」、
山崎藩隊長は、「右縄手ノ辻南ノ方衆人群衆の中より突出」
英国外交文書には、「行列ノ先手既ニ街角ヲ転スルヤ、忽然数名之日本人、両傍ノ人家ヨリ突出シ来リ」とある。
身近かで馬上から見ていたパークスの言が一番正しいのだろうか。
襲撃者のうち、林田衛太郎が打ち取られた場面は、諸説ある。
一説は、サトウやミッドフォードの「後藤象二郎は・・急いで馬から下り中井の救援に駆けつけた。彼らは敵と激しく戦って、ついに悪党の一人を斬り伏せ、(仰向きに倒れていた)中井が飛び起きて、彼の首を切り落とした」。「中井桜洲」の作者・屋敷氏は、中井を激賞する徳富蘇峰の言を引き、ほほ同じ立場に立っておられる。
しかし、別の資料を読むと違った場面が現れる。
パークスは、中井が手負いで危ないとみて駆けつけた後藤象二郎が暴徒を斬り首を刎ねたと報告している。
当日、松平春嶽が後藤象二郎から聞いた話を書きとめた日記は「象二郎馬ヨリ飛下り、忽チニ相手之浪士ヲ討留メ」、土方久元が書いた日記の内容は「後藤象次郎ヨリ討留相候由」であり、パークスの記述に近い。
襲撃者の一人、三枝蓊は捕縛されるが、捕縛に至る顛末も諸説ある。
ただ、一番詳細なのは、ミッドフォードの記述で、中庭に逃げ込んだ浪人を追い、庭の奥までたどって行き、塀を上って逃げようとする三枝を引き摺りおろし、護衛に引き渡した、と述べている。
この場面は、ミッドフォードの記述以外では見ないが、当事者以外では書けない内容になっているが、果たしてどうであろうか?
パークス襲撃の現場を見た後、霊山に向かった。
ここには、襲撃した二人のお墓がある。また、実葬を行った霊明神社には、明治21年に林田衛太郎の刀剣が献納されている。いつか拝見したいと思っている。
掲載のパークス襲撃図はWikipediaより拝借しております。
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