鳥羽伏見の戦い 伏見編
先日4月14日(土)、鳥羽伏見の戦いから150周年を記念し、咸臨丸子孫の会のイベントで伏見地区の戦いの址を訪ねた。
巡ったコースは以下の通り。
明治天皇陵~乃木神社~薩摩軍大砲隊陣地~御香宮神社~魚三楼~伏見奉行所~月桂冠大倉記念館~会津軍陣地~土佐藩邸~伏見口の戦い激戦地~寺田屋
近鉄・桃山御陵駅前から最初の明治天皇陵までは、桃山丘陵の緩やかな登りで、参道は森林の中に作られた玉砂利の道を歩く。陵の辺りは一説に薩摩第二砲兵隊が伏見奉行所に向け砲列を敷いたともいわれる場所。
薩摩軍は京都市内から桃山丘陵へ、伏見街道を経て伊達街道を通り大砲を運んできたと思われる。
現地で確認すると、四斤山砲の最大射程は2,600mあり伏見奉行所までの距離は十分だが、陵辺りは街道からはかなり離れているのでこの説には無理があるようにと思われる。
桃山丘陵の麓にある乃木神社に参拝。
境内には、希典が幼少の頃家族で暮らした下関長府の実家を模した家がある。三吉慎蔵の実家小坂家とは、長府では小路を挟んで隣近所でよく行き来していたので、慎蔵もよくお邪魔した家にはなる。
珍しいものでは、満州から移設した第三軍指令部の建物など置かれている。
また、小さな資料館には、自決前に学習院で書かれた遺書が展示されていた。
乃木神社と御香宮との中間辺りから、北側に桃山丘陵を登った辺りにある高台(薩摩第二砲兵隊の陣地跡)を廻る。ここは伊達街道沿いで、薩摩軍が伏見奉行を見下ろす高台として、大砲を据え置くにはぴったりの場所だ。
現在はその場所の辺りには龍雲寺がある。
従って、例えば昭和3年に京都連隊区将校団が編纂した『郷土戦史』には、
「官軍伏見総指揮官島津式部、・・・、既に龍雲寺高地に陣地を占領せる砲兵に装填を命ず」とあり、
また、ものの本には「薩軍は龍雲寺境内に大砲を設置した」とかの記事をよく目にする。
だが、龍雲寺は
正徳5年(1715)に伏見奉行石川備前守により、関ヶ原の戦いで討死した鳥居元忠配下数百名の霊を弔う為に建立された。しかしその場所は、より伏見桃山城の近くであり、今の場所に移ったのは明治27年。
慶応4年当時に薩軍が大砲を設置したのは、たしかに伏見桃山城へと続く丘陵地ではあるが、このときこの地に龍雲寺はもちろんない。
昼食後、今回の目玉の一つである御香宮(薩摩軍陣営、第一砲隊陣地)を訪ねる。
御香宮は、激しい銃撃戦を交わした伏見奉行所よりも15mほど高い位置にあり、当初から薩摩・長州軍が有利な位置を占めていたのが実感できる。
御香宮では宮司の御好意により、明治30年に初めて京都で東軍慰霊祭が開催された際に子爵榎本武揚が読んだ祭文、旧奉行所の庭から移した石などを配置した庭、元禄時代の伏見の絵図などを拝見した。
幕臣の末裔として御香宮の敷地内の東照宮を参拝したあと、京町通りにある魚三楼を訪ねる。
慶応4年正月3日~4日に行われた伏見の戦いで焼失した町には、戦いの痕はほとんど残っていないが、激しい市街戦が繰り広げられた京町通沿いにある魚三楼の店の格子には当時の弾の痕が残る。
戦いの様子を後世に伝えるまことに貴重なものだ。
魚三楼の辺りの京町通りの一画は今は道路が拡張されているため、格子の位置は当時の道からは後退しているが、格子により戦いの激しさは確認することができる。
京町通は当初、大手筋通を挟んで、北に薩摩・長州軍、南に旧幕府軍が対峙した。
京町通は、北から南にゆるい下り坂になっているが、弾痕は弾道が北から南に向かっていて、10M程北側の地面から南側に向け水平よりもやや上に発射したようにみえる。
銃弾痕とすると、薩摩・長州軍からの銃撃によると思われるのだけれども、南に下がっている道の先にいる旧幕府兵を銃撃する場合、北側にいる兵は水平より上に向けては銃撃はしない。
ところで、月桂冠大倉記念館の展示では、その格子の弾痕は旧幕府軍の弾と一致するという。
この件は、自分ではまだ具体的に測って確認はしていない。
しかし旧幕府軍のものとすると、激戦が繰り拡げられたあと、3日夜に押され始めた旧幕府軍が退却を始める頃に、薩摩・長州軍に向け発射した一発の榴散弾が魚三楼の北側10数メートの場所に着弾し、弾殻の中に詰めた子弾が四方に飛び散っ痕とした方が、弾痕の痕をよく説明できる。
次に、近くの広大な伏見奉行所址地に廻る。ここでは当時の西の正門あたりの石垣などを確認した。奉行所は薩摩軍の大砲などで火災を起こし、石垣には火災の痕がみえる。
奉行所の南端にある南桃陵中学校には、伏見戦跡の碑があり、グランドには奉行所跡碑があるが、学校休日なので、見学はできない。以前の撮影したのを揚げておく。
伏見はよい湧水が出ることから酒造所が多い。
その中でも名家の月桂冠大倉屋の記念館を訪ね、伏見の戦いの小規模な展示を拝見し、利き酒の御馳走になる。
会津軍陣地を確認した後、土佐藩邸址を経て、伏見での最後の激戦地・京橋附近を廻った。
最後に寺田屋を訪問。伏見の戦いで焼失したため現在の寺田屋は明治の建物になるが、後学のため有志何人か見学をした。
残念ながら時間も押してきていて、また雨の心配もあることから、龍馬が寺田屋から逃走したルート(寺田屋~材木納屋~薩摩藩伏見屋敷)を歩くことは諦め、今回の史跡めぐりはここまで。
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