赤松小三郎を訪ねて

大分前になるが、今年の夏に信州上田にて、赤松小三郎の生まれ故郷を訪ねたので、 これまでに廻った小三郎の関連史跡を纏めてみた。
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赤松小三郎は、天保2年(1831)上田藩士芦屋勘兵衛、志賀の次男として木町の御徒士長屋にて生まれる。諱は惟敬、幼名は清次郎。 木町の町名は、今現在は、小三郎の偉業を称え「赤松町」に変わっている。 生誕地
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赤松町にある赤松小三郎生誕地の案内板
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小三郎は、 天保14年(1843)、13歳より藩校の明倫堂に学び、竹内善吾の高弟植村重遠に師事する。
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嘉永元年(1848)、18歳で江戸に遊学。幕臣・内田弥太郎のマテマチカ塾に学ぶ。 嘉永5年(1849)、西洋兵学の権威・下曽根信敦に師事する。 嘉永6年(1853)、上田に一旦帰国する 嘉永7年(1854)、藩士赤松弘(10石3人扶持)の養子となる。名を赤松清次郎と改める。  養家赤松家は本町にあるが、正確な場所の特定が残念ながらできなかった。  赤松小三郎養家跡地あたり
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嘉永7年(1854)、再び江戸に出て、勝海舟の門に学ぶ。 安政2年(1855)、海舟の門下生として長崎海軍伝習所に赴き、約3年間オランダ人より語学、航海、測量等を学ぶ。小三郎は、正規の伝習生にはなれず、「組外従士」として、師である勝海舟の従者の形で参加した。  『幕末軍艦咸臨丸』では、勝麟太郎内侍として佐藤与之助ら9名の中に「赤松清五郎」の名で記述がある。  長崎海軍伝習所跡地
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安政6年に長崎海軍伝習所が閉所した後も、すでに勝から離れていた小三郎は長崎に暫し居残り勉学に励んでいる。この残留組を長崎の豪商・小曾根家が面倒を見ていたが、その時の残留組の住居絵図の左下に「清次郎」の名が見える。
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安政7年(1860)、残念ながら希望していた咸臨丸での渡米の機会を逃す。
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文久元年(1861)、名を赤松小三郎と改める(10歳年下の赤松大三郎が咸臨丸で渡米したことに因み改名) 元治元年(1864)、横浜在住のイギリス騎兵士官より騎兵術、英語を学ぶ。 慶応元年(1865)春、『英国歩兵練法』1862年版を翻訳し始める。翌年2月完成し、3月出版する。 慶応2年(1866)2月、京都に居を移し私塾を開く。しばらくして薩摩藩より、『英国歩兵練法』1862年の改訂版(}1864年版)の翻訳を依頼される。 8月、幕府征長の方針に反対する「口上書」を幕府に提出。 11月、幕府は小三郎を開成所の教官に採用したいと打診したが、上田藩京都留守居役の赤座寿兵衛が、藩の銃隊指導と兵制取調のため必要な人材との理由で断る。 慶応3年(1867)、『英国歩兵練法』1864年薩摩藩にて出版
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 5月、前福井藩主・松平春嶽に建白書「御改正之一二端奉申上候口上書」を提出し、民主的議会政治を提唱し学校設置の必要性などを論じる。小三郎の「平等」「公正」の精神が貫かれている。  9月3日、上田藩に帰国を前に、京都東洞院魚棚下ル現和泉町辺りにて中村半次郎と田代五郎左衛門によって暗殺される。
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暗殺前の小三郎の関心事と活動については、慶應3年8月17日付の兄芦田柔太郎宛ての書簡で垣間見ることができる。 現在の日本には、「天幕一和不得、幕ト数大藩不和、政道無算、人材不抽、乏銭、公法不立」つまり、朝廷と幕府が一致していない、幕府と雄藩とが仲たがいしている、政治が行き当たりばったりで計画性がない、人材を登用しない、資金がない、公法を守らないなど、の欠点があると書き、 そのため、「幕薩一和」、すなわち幕府と薩摩藩との和解の切っ掛けを作るため、西郷吉之助と談合し、幕府方では永井玄蕃を説いている様子が窺える。 この書簡を裏付ける資料に、山本覚馬の「管見」がある。 「幕府者勿論弊藩桑藩ニ至り候而も為國家焦思苦慮罷在候得共事情齟齬従何となく確執形を生し天下之物議ニ渉リ候儀も有之哉ニ付萬事一洗彼此嫌疑冰解仕度奉存候ニ付昨卯六月私儀赤松小三郎を以御藩小松氏西郷氏エ其段申述候処御同意ニ付幕府監察エ申談候得共更ニ取合不申」 「幕府は勿論、弊藩桑藩に至り候ても、国家のため、焦思苦慮罷り在り候へども、事情齟齬より何となく、確執、形を生じ、天下の物議に渉り候儀もこれ有るかに付き、万事一洗、彼此嫌疑氷解仕りたく存じ奉り候に付き、昨卯六月、私儀、赤松小三郎を以て御藩小松氏西郷氏へその段、申し述べ候処、御同意に付き、幕府監察へ申し談じ候へども、さらに取り合ひ申さず。」 これによれば、山本覚馬の理解では、「幕(会桑)薩一和」をめざして同じ考えの赤松小三郎を遣って小松・西郷に説き、同意した」とある。(但し、このときすでに明確に路線が違う薩摩藩首脳が同意したのか否かは不明) そして8月20付の兄への書簡では、10日以内には帰藩すると、連絡している。 上田藩より度々帰藩命令を受けていたが、9月に呼び戻されることになっていた。 その帰国直前での暗殺。 中村半次郎はその日記「京在日記」の9月3日の条で、「幕奸」だから斬ったと記述しているが、 小三郎が薩摩藩の軍事機密を知悉していたこと、薩摩藩の武力討幕路線には反対し、幕府と朝廷・薩摩の対立を融和させようとして朝幕薩の間で活動していたこと等が、暗殺の原因になったものと思われる。 半次郎の日記には、四条通東洞院角に一枚、三条大橋に一枚それぞれ貼りつけた以下の斬奸状の写しが記録されている。ただし、「幕奸」の意は伝わってこない。  罪状如左  元信州 上田藩 赤松小三郎  此者儀兼而西洋ヲ旨とし皇国之御趣意緒失ひ却而下ヲ動揺せしめ不届之至不可捨置之多罪ニ付今日東洞院於五條魚棚上ル処加天誅ヲ候ニ付即其首緒とりさら須べき処候得共昼中ニ付其儀ヲ不能依而如此者也 暗殺について、鹿児島県史料の忠義公史料第四巻には以下の資料が収められている。 「512 赤松小三郎暗殺セラル」   「赤松何某トテ、本信州浪人ニテ、砲術ニ達セシモノニ   、此方ヨリ段々門人モ多ク、有名ノモノニ候処、是   ハ幕府ヨリ間者之聞ヘ有之、中将公御出立前夜打果候   ヨシ、」 この史料名「512 赤松小三郎暗殺セラル」には、日付と出典を明記していないが、日付は、前後の史料年月日からみると慶応3年10月の頃と判定しているようだ。 暗殺を聞いてメモした者は薩摩藩士であり、「打果候ヨシ」など文意から、この時の討ち果たしの実行者は薩摩藩士であることを知っているのが分る。 中村半次郎の「京在日記」では散策中に偶然に見つけて討ち果たしたと記しているが、「中将公御出立前夜打果候ヨシ」からは計画的な匂いがする。 八・一八の政変を主導した中川宮は日記に以下のように記す。 慶応三年九月六日 丙辰 朝霧辰半ヨリ晴夕景ヨリ雨 「深井半左衛門参ル過日東洞院通五條近所ニテ薩人キリ死有之候風聞之処右人體ハ信州上田藩洋学者赤松小三郎ト申者之由右人體加天誅候由書付有之由也尤○十印余程此頃何ケ計可有之哉内情難計之由余程苦心之次第仍摂公ヘ以封中申入ル尤秋月悌次郎ヲ以巨細ニ申入ル」 「深井半左衛門まゐる。過日東洞院通り付近で薩人斬り死これあり候。風聞では被害者は信州上田藩洋学者赤松小三郎と申す者のよし。天誅の斬奸状も出たよし。尤も〇十印よほどこの頃計りごとありや否や、複雑な内情を探るにはよほど苦心がいる旨、摂公に書を送り、秋月悌次郎に巨細調べるやう申しやる。」 情報通だった公武合体派の中川宮にとって、アンテナを張っていたこの頃の薩摩藩の動きはよく見えていたのではないだろうか。 小三郎は、9月6日、京都・金戒光明寺に葬られた。 そして12月6日に建立されたその墓石には「薩摩受業門生謹識」として薩摩藩門下生が師匠を称える言葉と死を悼む言葉が書かれている。 墓石は砂岩のため傷みがひどく、3年前に御影石で造りかえられた。 元々の墓石は、今は、赤松小三郎記念館に記念碑として置かれている。
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信州上田に移送するため、撤去したところ
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京都金戒光明寺の新しい墓石
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墓石には両側面と裏面に、中井弘の文になる小三郎の梗概が刻まれている。 文中の「剞○」は版木に刻んで刷るの謂いだが、相当する漢字が見つけられなかった。  先生姓源諱某赤松氏称小三郎信濃上田人  也年甫十八慨然志於西洋之學受業同國佐  久間修理及幕府人勝麟太郞東自江戸西至  長崎游方有年多所發明後益察時勢之緩急  専務英學於其銃隊之法也尤精嘗譯英國歩  兵練法以公于世會我邦兵法採用英式旦夕  講習及聘致先生於京邸取其書更使校之原  本而肆業焉今歳之春   中将公在京師也  召見賜物先生感喜益尽精力而重訂書成十  巻上之   公深嘉称速命剞○将以有用於  天下國家也蓋先生平素之功於是乎為不朽  可不謂懿哉不幸終遭緑林之害而死年三十  有七實慶應三年丁卯秋九月三日也受業門  人驚慟之餘胥議而建墓於洛東黒谷之塋且  記其梗概以表追哀意云爾                薩摩受業門生謹識  先生は、姓源、諱某、赤松氏、小三郎と称し、信濃上田の人である。  十八才になってすぐ、国の将来を憂いて西洋の学問を志し、学業を 同国の佐久間修理と幕府人勝麟太郞に受けた。  東は江戸より西は長崎に至って遊学すること多年にして、才を発揮するところが多かった。  後に、益々時勢が差し迫ってきたことを察し、専ら英学の中で銃隊の兵法を研究する。精進して過って「英国歩兵練法」を翻訳し、世に公にした。  我が邦(薩摩藩)の兵法に英国式を採用し朝夕講習するに及んで、先生を京都藩邸に招聘した。先生は、「英国歩兵練法」を用い、更にこれを根源から検討して直さしめ、学業を自在に行った。  今年春、中将島津久光公が京師におられるとき、先生を召見し物を賜ったが、先生は感激ひとしおで喜こび、益々精力を尽くし、「英国歩兵練法」を重訂して十巻と成し、これを久光公に上呈した。  久光公は先生を深く嘉し、将に天下国家に有用であるとして、速に印刷を命じられた。  蓋し先生の日頃の功績であり、此処に不朽の名声を欲しい儘にしたといってよい。  不幸にして遂に盗賊の害に遭い亡くなられた。年は37才であった。実に、慶応三年丁卯秋九月三日のことである。  学業を受けていた門人は驚慟するあまり、小議して墓を洛東黒谷の墓地に建立し、且つ、先生の梗概を記し、以って追哀の意を表わすばかりである。                薩摩藩門人謹識 ただ、この墓標の文章は、何も知らない薩摩藩の門人が記したのであれば問題はない。 佐久間象山に学んだこと、盗賊に害されたこと、などの事実誤認は単なる知らなかったことによる間違いとして見過ごせよう。 しかし、島津久光が京を離れる前日に計画的に殺め、それを知っている人間が文章を書き、墓標を建立したのであれば、その墓標の下に眠っている小三郎は喜んではいないはずだ。 京都で殺害された小三郎の遺髪は故郷上田に送られ、月窓寺に遺髪墓が設けられた。
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赤松小三郎遺髪の墓 「良鑑院松屋赤心居士」
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明治39年(1906)5月10日、小三郎の門下生であった伊藤祐亨元帥、東郷平八郎大将と上村彦之丞中将三人が、日露戦争に勝利した翌年、善光寺における日露戦争戦没者慰霊祭出席の帰途、上田に立ち寄った。
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3将軍は、上田が恩師小三郎の出身地であると知り、翌日墓参する。 (但し、伊藤祐亨元帥が墓参した記録は「贈従五位赤松小三郎君之碑」の裏面には見当たらないが・・・・) 「明治三十九年五月東郷上村両提督信山ニ遊ビ相携ヘテ月窓禅寺ニ展墓し先師ノ英霊ヲ弔ハル」 来田時、三吉米熊も3将軍を歓待し記念品を贈ったが、3将軍連名の礼状が三吉家に残っている。
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大正13年(1924年)、赤松に従五位が追贈されると東郷平八郎は赤松顕彰碑の碑文を揮毫した。その石碑は東郷没後の昭和17年(1942年)5月になって上田城跡公園に建てられた。 上田城内にある「贈従五位赤松小三郎君之碑」 左に「元帥伯爵東郷平八郎書」とある。
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碑の裏面には、「赤松小三郎先生略伝」 が刻まれている。
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また碑文に、「公武合体ノ方策ニ基キ薩ノ西郷幕ノ永井等ト共ニ大ニ奔走尽力セシモ藩命黙止難ク将ニ東帰セントシ會刺客ノ害ニ遭フ時ニ慶應三年九月三日年三十有七黒谷光明寺ノ塋ニ葬ル島津候厚ク弔意ノ至誠ヲ竭ス門下生相図リテ墓碑ヲ建ツ」 昭和17年時点では噂はあったが、會(たまたま)刺客の害に遭う、とあり刺客の名は記していない。 東郷平八郎は、恩師に繰り返し弔意を示したが、暗殺事件については生涯語らなかった。 東郷死去の前年・昭和8年(1933年)に長野県の教育家・岩崎長思が、暗殺事件究明のための取材を申し入れたが、東郷は「語りたくない」と伝え、取材を断っている。 小三郎の墓のある京都・黒谷金戒光明寺の善経院には、菩提寺であることを示す石柱がある。
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  上田城跡公園に「贈従五位赤松小三郎君之碑」が建立されたのと同じ昭和17年に、善教院の傍らに駒札が建てられた。この駒札は読みづらくなり、今は上田の赤松小三郎記念館に保存されている。
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生まれ故郷・上田では、郷土の偉人・赤松小三郎を顕彰している。 そして平成23年には、丸山家の好意により、旧木屋平の文書土蔵を借り、念願の赤松小三郎記念館が出来上がった。
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記念館入口
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記念館
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赤松小三郎顕彰会は平成15年に発足しているが、その間多くのイベントを計画実行し、記念館も設立して資料を展示し、またまだ知られていない小三郎について、顕彰事業と広報活動に注力されてこられている。 今回の訪問では、顕彰会の伊東邦夫会長に特にお世話になりました。ありがとうございます。 参考: ●「赤松小三郎 松平忠厚 維新変革前後 -異彩二人の生涯ー」 上田市立博物館 ●「松平忠固・赤松小三郎 -上田に見る近代の夜明けー」 上田市立博物館 ●「赤松小三郎実録」 赤松小三郎顕彰会、 ●「信州奇人考」 平凡社  ●「朝彦親王日記」 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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