摩耶古道を歩く

昨日、老中小笠原長行文久3年1月3日、摩耶山から摂海湾を一望するために登った摩耶古道を歩いてきた。 その日は新暦では1863年2月20日、149年前の同じ日になる。 文久2年閏8月17日の、海軍奉行並の任命から記述が始まる「海舟日記抄録」によれば、 長行は、文久2年12月17日摂海警衛、巡視のため、多くの役人を引き連れ品川海岸を順動丸で出帆する。 20日遠州灘を過ぎ摂海へ向かい、21日9ツ過ぎ、兵庫港に投錨、翌22日天保山沖に投錨する。 23日摂海内を移動航海し、地勢を見る。 24日上陸する(長行はおそらく大坂城へ入る)。(出帆から24日まで海舟は同行) 29日兵庫へ。(海舟は宿泊旅館へ出向き、時勢並びに摂海警衛の意見を申し述べ、書を呈す) この日は事前に千葉重太郎、龍馬が海舟の元へ来たので、聞き取った京師の現状を話したものと思われる。 文久3年正月元日、明石(いつ明石に来たかは不明だが、海舟も昼に明石に来て3日まで同行する) 2日、明石出立、兵庫に。 「3日、摩耶山に到り、バロメートルにて高度を試む。甲賀[源吾}子、算定。」 この後、長行は泉州岸和田の海岸を海舟の乗る朝陽丸で巡覧するなどして、10日、海舟などと会し、摂海警衛のことを決議している。 海舟の案内により、順動丸や朝陽丸で摂津の海と海岸の現状を巡覧し、また地図だけで全体把握するのではなく、実際に大坂湾全体を俯瞰するために、摩耶山に登る。 その後の幕末の場面にも見られる如く、決断力のある行動的な老中であった。 摩耶山には複数の古道があるが、いずれも山頂やその近辺を通る。
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天上寺への参詣道、修験者の修行の道、大名が通る街道(徳川道)、居留地に住む外国人が健康のために歩いたハイキングロードなど、それぞれ趣が異なる道が色々と交差する。 小笠原長行が150人の役人を引き連れ、どの道を通って山頂(八州嶺)に至ったのかは記述がないが、その日は兵庫から出発しているので、兵庫寄りの古道に候補は絞れる。 布引の滝を通るコース、雷声寺を通る旧摩耶道、別名行者道の青谷道、旧天上寺参詣道のひとつ上野道。 中でも上野道は、高貴な身分の参詣者が利用する幕府直轄の道でもあるので、この道を通った可能性が高いため、今回は一番短いがやや急な坂道と階段のある上野道と観音道を通って、八州嶺を登り下りしてみた。 距離は約2キロ、登り2時間、下り1時間。      上野道の登り口にある碑
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     狭い道が続く
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上野道は、古くから天上寺への参詣道として利用され、仁王門から天上寺へは参詣道らしい石段の道になる。
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     参詣者が多かったことを偲ばせる花壇屋
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     仁王門は修理中
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     ここからは石段が続きだんだん急になるく
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     繁盛したことを示す宿坊の修繕銘
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     階段を上がると、
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旧天上寺のあった場所、昭和51年に焼失、現在の天上寺は北に700m移転
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かって参詣で賑わった天上寺跡を過ぎると、観音道を通って山頂を目指す。 観音道は、原生林の中のつづら折りの道で、路傍にはいくつもの祠の跡がある。
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      所々に雪が残っている
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登りきると長行が八州嶺と名付けた事を記念する石が置かれた掬星台に到る。
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                 尾根を歩くため、展望台が数多く設置されていて神戸や大阪の町や大阪湾を望むことができる。 昨日は晴れた良い天気で山頂からは大阪湾全体は見渡せはしたが、ただ残念ながら、遠くはかすみ、途中の展望台からも山頂からも、長行や海舟が見た大阪湾の入り口の淡紀海峡(友ケ島水道)までは確認できなかった。
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