会津松平家の墓誌

先日、先祖調査のため上京した。

その折、多摩霊園へ出かけ、一族の一人・高祖母の姪杪(すえ)が葬られている会津松平家のお墓に参ってきた。

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これは松平容保の次男健雄の墓所で、会津松平家は容保の長男容大が相続し、健雄は分家している。こじんまりしたお墓で、個人別の墓石はなく、「松平家墓」の墓石ひとつがあるだけである。

墓所には墓誌があるが、よくみると彫られている内容がおかしい。

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右から二番目に

  「   杪 健雄妻 

   明治  十三年  二月十日 生 

   明治三十八年十二月五日 没」

となっている。

そして何故か左から四番目に、

  「松平 抄 健雄妻

   明治  十三年  二月十日 生 

   昭和三十八年十二月五日 没」

とある。

同じ人物を、ダブって墓誌に刻むのもあまりきかないが、両者で、名前が「杪」と「抄」と偏が異なっている。

没年は「明治」が「昭和」に替わっている。

この墓誌を彫るときにこの異常に気が付かなかったのだろうか?

「杪」は昭和38年まで生きていたので、

  「松平 杪 健雄妻

   明治  十三年  二月十日 生 

   昭和三十八年十二月五日 没」

が正しい.。

左から四番目の「抄」を彫った時の当主が福島県知事だった松平勇雄だとすると、自分の母親についてこんな間違いをするとは思えない。

むしろ、勇雄が亡くなった時に、誰かが間違えて、追加してしまったのだろうか。

彫った文字が間違えていた場合、通常は石そのものを取り替えることはしない。

刻んだ文字の深さまで全体を薄く削って、もう一度全面的に彫り直す。

但し石が古ければ、削るとひびが入る恐れもあるため、そのままにするか、費用は掛かるが新しい石に取り換えて全体を彫り直す。

この墓誌のように、前の間違いをそのままにしておいて、正しいのを付け加えることは普通はしない。

これでは、位牌と、墓誌に彫られた二つと、名前が三つになる。

世代が替わった時に正しいのがどれか分からなくなるからだ。

なぜこのようなことになってしまったのか?

墓誌に彫られた内容をみると、

前の六名(健雄から三男也まで)と、あとの四名で大きな違いがある。

前の四名は姓が刻んでいない。

後の四名はすべて姓が入っている。

前半の六人は、「慶雄」の没年が昭和62年であることから、慶雄が亡くなった時に、弟の勇雄が六名を同時に彫った墓誌を新たにこしらえたか、劣化した石を取り替えたのではないだろうか?

考えにくいことだが、この時に、自分の母親であるにも関わらず、杪の没年を「昭和」ではなく、「明治」に間違えて彫ってしまった。おそらくそのことに気づいていたが、次に誰かを彫るときまでそのまましておいたのだろうか。

しかし、左から4番目の「抄」は、いつ彫ったのであろうか?

間違いに気づいて、前の間違いを明確に正すために、追加して彫るときに、「松平 抄」と姓をつけたのだろうか?そしてその時に、名を間違えたのだろうか?

それともだれかが亡くなった時に彫ったのであろうか?

勇雄の妻玲子が平成15年に亡くなった時に彫ったと考えるのが普通だが、姓に「松平」を付けているのが気にかかる。

のちに「難波菊次郎」が記載されるので手回しよく「松平」姓を付けたのだろうか。

こんなことは考えにくいが・・・・。

しかし、この論理で行けば、勇雄が亡くなった時に、この墓誌に「松平」姓を刻んだと考えることもできない。

おそらく「難波菊次郎」を彫るときに、「難波」姓が入るために、「松平」姓を彫ったのであろう。

とすれば、あとの「松平 抄」から「難波菊次郎」の四名は同時に彫ったと推察できる。

しかし、福島県知事まで務めた勇雄の名前を、亡くなったあともその時まで墓誌に彫らないのも考えにくい。

墓誌の記述を巡る難問は残念ながら今は解が分からない。

分家とはいえ「会津松平家」の墓誌であるのにこんないい加減さでいいのかという疑問は消えない。

現在の名義人と連絡を取り、墓誌を改めたいものだ。

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