生野義挙の小山六郎

3年前ほど前から、幕末の頃の先祖の調査を本格的に開始した。 まずは母方の先祖から始めたのだが、幕臣長府藩士とその縁者等、調べる対象は多岐にわたっている。 実際には、三吉慎蔵以外はまだ殆ど調査が進んでおらず、慎蔵についても調べが進めば不明なことが多くなるのが実情で、そんな中、今年6月から父方の先祖も調べ始めてしまった。 父が95歳の高齢で、存命中に調べておきたいのがその最大の理由。 まず、神戸に住んでいた祖父の出身の但馬山東町にある楽音寺にて、御住職からのヒアリング、過去帳や境内の碑文から調査を始めた。
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楽音寺での伝聞や、碑文などによると、 先祖は遠くは因幡(鳥取)湖山出身の湖山耕雲斎といい、理由は伝わっていないが、但馬の向大道村の里に8世紀のころに移り住んだ。 今の八幡神社周辺に居を構えて湖山を小山に改め、住居付近の地名を小山とし、空海に帰依して楽音寺を建立した。 八幡神社は、この小山一族の祖、小山耕雲斎を祀っている。 一族が増加するにつれ居を川東に移し集落を形成した。それが現在の向大道集落で、今でも32家のうち3家以外は小山家を名乗っている。 時代は不明だが、小山家は集落内で大きく宗家と本家とに分かれ、今に至っている。 また八幡神社の近くにある一族の墓石を見て回り、過去帳の人物の墓地を確認した。
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墓石はかなり古い時代のものもあるが、読みづらくなっており、今のところはまだ具体的には幕末を生きた5代前の人までしか系図を遡れていない。 一族の中には、幕末の頃の人物として、生野義挙に参加した小山六郎喜昌がいる。
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わずかに資料が残っているので、小山六郎から調べることにした。 以下は、その中間まとめである。 小山六郎については、簡潔にその履歴を記しているのは、小山六郎が著した「但馬義挙実記」の中に、年来の盟友であり義挙の参謀を務めた木曽源太郎(旭健)が補注した文章がある。 「小山六郎は義士なり。為人剛直にして面好て書を読む。憂国の志篤くして但馬義挙に加わる。其后長州へ入り、奇兵隊招賢閣に居し、数度の長州内乱に苦戦す。盲人となり維新后但馬に復籍し賞典し秩禄等給る。年勤王の故を以て国士の称号を給はりしか尚素志を失わず、地方官へ建白の書を呈して自尽しけるとそ。他日建白の趣旨を尋べし嗚呼報国尽忠の志有りと謂うべき人なり」 また、菩提寺の楽音寺に、小山六郎百回忌を記念して建立された「勤王の志士 従五位 小山喜昌事績」碑がある。
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「小山喜昌 始め六左衛門と称し後に六郎と改めた 祖先は鳥取県因幡から但馬国朝来郡大月村(現在の兵庫県朝来郡山東町)に移り住んだ 家世々農を業とし一郷の豪族であった 幕末の世に生まれ風雲騒擾の際に人となりはやくに海内の英傑郷士の志士と往来し国難を攘除するを以て己が任とした 文久三年大和天誅組の決起した時これと相呼応し同志と謀って三位澤公を迎え本郡生野に尊王救国の旗を翻したが同志の策調はず幕軍の来攻農兵の反逆を招き敗戦の惨苦を満喫して僅に身を以て遁れた その後長州に走り高杉晋作の軍に投じ大いに尽力したが遂に眼を患うて身を退くの外なく然も其の後程なく王政維新となって宿願の成就を喜んだが庶政未だ民を安んずるに足らぬを見ては又衆に代って書を官に致し屠腹して願意の貫徹を期した 時に明治四年十二月二十四日春秋三十有七歳であった その志節は万世に仰ぐに足り衆人は深く哀悼した 官は祭祀料を下し大正八年には従五位を追贈した 喜昌生来状貌は清らかで声は大きく胆気人に絶し義を見ては勇往し事に臨んではよく決断を つけ人に接するとき隔りを設けず人の過失あるを見ては直言面折していささかも仮借しなかった これらの事績は郷土の宝珠峠の墓碑に伝えられ又その名は郡内山口護国神社の碑陰にも録され靖国神社にも合祀されているが先に明治百年を迎え 今 喜昌の百年忌を迎えるに当り事績の微になり行くを恐れ又祭祀の永く絶えぬようにとの念願のため郷土の楽音寺第十八世住職義圓僧正の御厚志により 浄邦院風雲勁節居士 の法名を授かり又同寺境内にも義圓僧正の御厚意御撰文による碑が建てられた 昭和四十五年十月二十四日 六郎喜昌次弟喜紀の孫潜造印之」 小山六郎の碑には、事績文に加えて、 六郎と交友同盟の士であり先輩であった平野国臣と美玉三平(安麿)が、六郎の居宅で書き六郎に贈った短冊の銘板が埋め込まれている。
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小山宗家に於て詠んだ志士平野国臣の和歌  さびしさのなくさむやとをいでしとき  みやこの秋は わすれさりけり     国臣 同        志士三美玉三平の和歌  浪速江のなをよしあしもあかぬよに  こころをきなく いぬるよはかな     安麿 生野義挙に参加し、また影響を与えた人物としては、 ①他国の志士として、美玉三平、中条右京、平野國臣、本多素行 ②攘夷派志士に、小山六郎、小山六左右衛門(六郎弟)、福田元良、吉井貞七、畑弥平次 ③農兵首脳者に、田治米吉朗右衛門、藤井三郎右衛門、日下安左衛門、山崎甚兵衛 ④東地区の志士として、但馬の教育殿堂・青渓書院に学んだ書生(草庵先生の攘夷論を学ぶ)の北垣晋太郎、進藤俊三郎、西村哲次郎、中島太郎兵衛、太田六右衛門、西村庄兵衛 ⑤影響を与えた人物として、但馬出石郡香住出身の田中河内介、豊岡の今井成績 などがいるが、 小山六郎は、この中でも、進藤俊三郎(原六郎)、北垣晋太郎(北垣国道)と義兄弟の約束を結び、志士中最も親交を厚くした三兄弟といわれている。 義挙が破陣したあと、 六郎の墓の撰文には、「君乃チ姓名を変ジ走ッテ京摂ノ間ニ逃ル」と脱走後の六郎を語っている。
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慶応元年5月、幕府が第二次長州征伐を起こした頃、原六郎や北垣晋太郎とともに海を渡り讃岐に行く。 つまり文久3年の10月から慶応元年の4月から5月頃まで、身をひそめていたことになる。 原や北垣の伝記によれば、原・北垣は、破陣後、鳥取経由で京・江戸に潜入し因州屋敷で保護を受け、千葉重太郎や龍馬とも会っている。 このことから、おそらく小山六郎も、破陣後、二人と行動を共にして京都・江戸因州屋敷に身を隠していたと考えられる。従って、千葉重太郎や龍馬とも会っている可能性もある。 但しこれは残念ながら確認できる史料は今はない。 慶応元年には原・北垣に六郎も同行し、長州への途次、讃岐にて偶然に高杉晋作に会う。 この高杉の添え書きを以て原六郎は遊撃隊に、小山六郎は奇兵隊に入る。小山六郎は三田尻で七卿が潜んでいた招賢閣の護衛に当たったらしい。 もちろんこの時は五卿はすでに大宰府にいる。 奇兵隊は、隊士の出入りが多く、時と場所により隊士人数に変化がある。まだ「山口県史 資料編幕末六 別冊」の諸隊の名簿は自分の目で確認していないが、奇兵隊名簿は慶応元年2月改のピンポイントのものしか残っていないらしい。 慶応元年2月であれば、そこには小山六郎の名はない。 また、慶応元年春以後の名簿があったとしても、変名した姓名が伝わっていないため、今のところ確認ができない。 一方、武田芳太郎 「但馬志士伝」には「六郎遊撃隊に加わる」とあり、また「生野義挙」を収めている「維新日乗纂輯二」の例言には「長門ニ赴キ遊撃隊ニ入ル」とあるので、所属した隊は奇兵隊ではなく、原六郎と同じ遊撃隊なのかもしれない。 いずれにしろ、第二次長州征伐の際は、小山六郎と報国隊にいる三吉慎蔵とが、小倉口の戦いでは戦友だった可能性もでてくる。 長州での活動は、今後の調査になる。 六郎は、慶応元年春から長州に滞在し、慶応三年王政復古~慶応四年三月の間に但馬に帰ってくる。 木曽源太郎は「数度の長州内乱に苦戦し盲人となり」と書き、 武田芳太郎「但馬志士伝」には「六郎遊撃隊に加わる、軍中明を失す」とある。 帰ってきたときは、長々の病苦により失明していたが、どのように帰ってきたかは明確にする史料がない。 小山家に、迎えの者が二人長州まで出向き、つれ帰ったとの伝聞が残るのみである。 慶応4年1月5日京都を発した山陰道鎮撫総督西園寺公望が統率する一行が但馬路に入ってくる。 1月15日には生野に入り、義挙の関係者の閉門幽居を許し、恩命を与える。 もともと小山家は苗字帯刀を許されていたが、六郎の相続人である弟六左衛門は苗字帯刀を許され、国侍を仰せつけられた。 この年の3月、六郎は、西園寺鎮撫総督に口上書を以て、従軍を願い出ている。
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   口上書 一、私儀積年御扶助被下難有奉存候 御陰ヲ以心志忠勤仕度存込候内長々之病苦 廃目ニ相成日夜心 侮まかる在候 当今王政復古之御大基被成立候 折柄大恩之寸分モ 報忠仕度候処前病ニ苦ミ一歩モ進退難成候故 私弟儀甚愚者ニ 候得共東国御征之御隊江御召連被下 私年来之遺念同人共相貫 呉候様致為度奉願候 私儀者募兵周旋等只廃目相応之御用被仰 付 当陣営中ニ而御厚情被下候ハバ大恩大志難有奉存候 依之 以口上書奉願候                   謹言     慶応四年辰三月                        小山 六郎 しかしながら西園寺公は病を養うようにと慰め、弟の従軍も許さなかった。 その後、戊辰の役、版籍奉還廃藩置県と大変革が推し進められるが維新なお日が浅く、明治政府は多事多難で威令は辺境に及ばない。民衆の不平不満は相当なものがあった。 六郎は、こうした時勢のもと最後の奉公をしたいと望み、政府と兵庫県庁へ、時勢を慨嘆しその改正を願う二通の上申書を提出する。そして願意の貫徹を期して屠腹する。 明治4年12月24日、37歳であった。 のちに、六郎の供養祭の折、次の様な歌詞がうたわれたという。    ここに祭る 君がみ魂  乱は砕けて 香は匂う  骨は枯ちても名をぞ止む  光絶せぬ その光り 参考: 維新日乗纂輯ニ「但馬義挙実記」       木村丑朗 「小山六郎喜昌」  「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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