今月発行の『歴史人』6月号は「幕末の事件史」の特集号で、その一つとして生野の変を扱っている。
全体の記述は、時系列が逆であったり、事実と異なる記述が目につく。
参考に「生野の変 主な決起メンバー」のリストが掲載されているが、澤宣一・望月茂共著の『生野義挙と其の同志』昭和7年に依っているようだ。
実は前から不思議に思っていたのだが、『生野義挙と其の同志』には、主な決起メンバーに小山六郎が入っていない。従って『歴史人』もそのコピーなので同じく載せていない。
それは何故なのかが、僕の関心事だった。
生野の挙兵に至る経緯は、ごく簡単には、
但馬やその近隣では、地域の治安と日本海沿海防備には人不足で、農民を兵に取立る農兵取立が実行に移されていた。南但馬の村々でも、その情勢に触発された北垣晋太郎の発起により農兵取立が計画される。
北垣は上京し、幕府や朝廷に農兵取立を建白し、文久3年8月16日に三条実美から支持を取り付ける。その直後に、八・一八の政変、大和で天誅組の乱が勃発している。
生野を含む南但馬での最初の農兵取立の会議は、文久3年9月5日に養父明神別当所(普賢寺)にて開催される。
生野代官所属吏2名臨席のもと、美玉三平、本多素行および地元農民有志23名が参加している。小山六郎は和賀庄惣名代として参加し、一同と同じく農兵募集周旋方に任命される。
この会議が行われた時は北垣はまだ京都におり、長州藩・野村和作から器械・器具・人数(銃、弾薬、兵)の援助を条件に、大和救援のための但馬挙兵を強請される。
北垣が帰但して、9月19日に第二回農兵会議が平野国臣も加わり、地元有志は前回と同じ顔ぶれで開催される。代官所属吏が退去した後、この会議は大和救援の挙兵会議と化し、10月10日挙兵を決め、その役割分担を定める。
このときの小山六郎の役割は伝わっていない。
なお、『幕末生野義挙の研究』では節制方に任命されたとしているが、引用している『小山六郎覚書』に記述がないので、10月12日挙兵時点での役割と勘違いしているようだ。
第二回会議では西下した七卿から総帥を求め、その要請に基づいて沢一行が生野に到着した10月11日の翌12日、生野代官所陣屋を占拠する。
そして代官所陣屋を本陣と定め、担当部署を定めた。
『小山六郎覚書』では、小山六郎は、農兵の徴集、編成、武器・弾薬の調達其の他を役目とする「節制方」に任命される、との記述がある。
ここで問題なのが、『生野義挙と其の同志』との齟齬なのだ。
同書では、節制方は、中島太郎兵衛、美玉三平、多田弥太郎、堀六郎の4名になっている。
『小山六郎覚書』では、節制方は、中島太郎兵衛、美玉三平、多田弥太郎、小山六郎の4名。
最後の行と、次ページの最初の行
どうも、『生野義挙と其の同志』では似た名前を取り違え、以来当書を引用する『生野義挙日記』昭和16年、『幕末生野義挙の研究』平成4年などの書物で、ことごとく間違えていく。
平成10年の『兵庫県史』では、写真のごとく、節制方は5名にして、小山六郎を加えてはいる。 (黄色のマークは無視してくださいませ)
ただやはり、小山六郎自身が記述した『小山六郎覚書』の4名が正しいのであろうと考えられる。
参考
『但馬義挙実記 一名小山六郎覚書』 (筆記時期不明)
『生野義挙と其の同志』 (1932年発行)
『生野義挙日記』 (1941年発行)
『小山六郎喜昌』 (1970年発行)
『幕末生野義挙の研究』) (1992年発行)
『兵庫県史』 (1998年発行)
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