いま住んでいる宝塚の近辺は、幕末のころ人の往来が多かった。
宝塚は周りに、要衝の地・小浜、有馬への入り口・生瀬、酒造りの盛んな鴻池・伊丹、参拝者が途切れなく続く中山観音・清荒神などの神社仏閣、などがあり、巡礼街道、西宮街道、京伏見街道、有馬街道が交わる場所だった。
交通機関が発達していない幕末に、当時の人はどのように行き来していたのか、実際に足で歩いてみて幕末の頃の雰囲気を味わってみたくなった。
河井継之助は、安政6年に備中松山藩の山田方谷を訪ねたときに、宝塚を通過している。このときに旅行日記を残している。
そこで、この日記を参考に、継之助が大坂から有馬まで歩いた道を辿ることにした。
継之助の旅の記録「塵壺」によれば、
安政6年(1859)7月9日、3泊していた大坂築地の竹式という宿屋を昼時前に出立し、
十三川を渡り、神崎・伊丹を過ぎて、中山観音へ参り、その晩は生瀬に泊まる。
翌10日、生瀬を出立し、蓬莱峡を眺めながら険しい道を行き、昼前に有馬の奥の坊に宿をとっている。
大坂から有馬までは1泊2日で着いているが、「塵壺」には、道程は簡単に記すのみなので、貝原益軒の「有馬湯山記」、坂上太三「宝塚の古道」などを参考に、コースを確認してみた。
「塵壺」にはおおざっぱな道順しか書いてないが、おそらくより細かくは、
1日目
竹式楼-->なには橋-->曽根崎-->中津-->十三の渡し-->(十三筋)-->神崎の渡し-->(有馬街道東廻り)-->猪名寺-->伊丹-->鴻池-->荒巻-->中山寺-->(巡礼街道)-->売布神社-->清荒神-->(有馬道)-->宝塚-->生瀬
2日目
生瀬-->蓬莱峡-->船坂-->有馬
の道順ではないだろうか。
清荒神は順礼街道沿いにはあるが、そこから更に山奥のお寺まで参拝するのは時間的に厳しくおそらくお参りしていないと思われる。
距離はざっと、一日目は約30km、二日目は登りの山道で約10km。
先日、実際に大坂の竹式楼から歩いてみた。
神崎の渡しまでは、次図の左上、中之島-->曽根崎-->(中津)-->加嶋-->神崎のコースになる。
大坂の築地の竹式楼があった場所から出発する。
なにわ橋を渡り、曽根崎へ
ついでに曽根崎のお初天神に参る
中津を過ぎ、淀川へ
淀川の碑には伊丹まで2里半と刻まれている
淀川を渡ると十三の渡しの碑と説明板がある。当時の淀川は川幅がかなり狭い
十三筋を伊丹方面へ進み、神崎川に到る
神崎川を渡り右へ行くと、神崎の渡しの跡近くに、航海の安全を祈る金毘羅さんの石灯篭が立っている。
幕末時の渡し賃は、1人につき40文(増水時には6割増しの64文)。ただし武士と僧侶は無賃。渡し船は2艘で、他に馬越え船が2艘、平日は5人の船頭が詰めていた。
この神崎の渡しで、道は尼崎方面と有馬道東回り、西回りに分かれる。
中山寺に近距離の有馬東回りの道をとると、そばに遊女塚がある。
猪名寺まではほぼ横に流れる裳川の近くを並行して進む。
途中に、素盞嗚神社がある。
猪名寺からは、旧街道を通り、猪名寺廃寺を見て、
東リ(株)が敷地内に維持管理している、猪名の笹原旧跡の説明番を読んで
伊丹の旧大坂道を通る
ちょっと脇には、伊丹不尽の井がある。
荒村寺では、鬼貫の碑を拝見し、
織田信長に滅ぼされた荒木村重の居城・有岡城跡に到る
大坂北浜の宿竹式楼から有馬までの道順のうち、
1日目は大坂から生瀬までの予定なのだが、今回は伊丹までとした。
継之助が歩いたときは夏なので陽が高かったが、今の季節は5時過ぎには暗くなってしまう。昼過ぎから歩いて途中で寄り道などしたため、伊丹で5時になり、残り10kmほどなのだが暗いなか川の土手などを歩くのはリスキーなので、伊丹で打ち切りとした。
伊丹では、小西酒造本社にお邪魔し、酒樽を運んだ弁才船の模型を拝見した。
また、小西酒造より幸民の「幕末のビール」を販売していることを、川本幸民の御子孫から教えて頂いたので、早速買ってきた。
幸民は、江戸で緒方洪庵と同じ塾で蘭学を学び競い、時代をリードする蘭学者になっていくが、西洋文物も単に知識として理解するだけでなく実際に実験をおこない実証していた。
そしてペリーが来航した1853年、日本人としてビールを初めて醸造した。
もともと酒好きだったが、ペリー来航により西洋文明に遅れをとり劣等感に打ちひしがれている同胞を勇気付けるために自分たちも同じものが造れることを証明して見せるためだったといわれている。
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