先日、TV英雄たちの選択「不可能への兆戦~河井継之助の北越戦争」を録画で拝見した。
内容の出来はともかく、
河井継之助が、高梁の山田方谷を訪ねる場面とその旅日記『塵壺』も紹介された。
継之助は、その道中の途次の宝塚の近辺では、安政6年(1859)7月10日に生瀬宿から有馬の宿までを歩いている。
『塵壺』では、
「十日 晴
生瀬を立って、川の中計り四十八丁とか行く難路なれども未だ見ざる処の奇山風景面白し夫より山へ懸る。道の険は湯治場は皆然り。昼前に着きて、奥坊に宿を取る。五度入湯。夕方鼓の瀧を見る。」
コースはおそらく以下の通り。
生瀬-->一本松-->座頭谷-->蓬莱峡-->船坂-->白水峡-->有馬(奥の坊)
3年ほど前に、京都三条大橋から江戸日本橋まで旧東海道を19日間で歩くための準備として、この継之助が歩いた道をたどって、自宅から有馬の湯まで週2回の割で14回歩いた。
そのおかげで、かなりトレーニングになり、足が鍛えられたと思う。
河井継之助のおかげといってよい。
僕が歩く道は、
自宅から生瀬までは平坦な道、生瀬から船坂までは一本調子の登り坂、船坂から有馬まではアップダウンと平坦な道が交互に続く。
旧東海道を歩破した後も、有馬の金の湯の一番風呂に入ることを自分に課して何度も歩いてきた。
TVで観た記念に今日同じ道をまた歩いてきたので、記録しておきたい。
家を0515に出発し、生瀬を0546に通過、蓬莱峡を0611に臨み、船坂山王神社に0648、白水峡を0713、金の湯到着が0743だった。途中、船坂で朝食と水の補給で10分ほど休憩した。
金の湯の一番風呂は0800からだが、5分前に入口は開く。
着いて10分ほど待つと、一番風呂の常連さんが集まってくる。
皆年寄りで顔見知りが多いが、だんだんと数が減り、今日は7人だった。
少しずつ知り合いが減ってくるのは寂しい限りだ。
生瀬の入り口近くの朝の風景
生瀬を通り過ぎて、20代後半に住んでいた青葉台住宅地のそばを通る。
武庫川を越える橋が老朽化したため取替工事中。もうすぐ完成しそうだった。
蓬莱峡の手前にある、砕石場の建物
蓬莱峡を遠くに臨む場所の座頭谷付近から
多くの時代劇のロケ地となった蓬莱峡の景色
坂の途中に在る、注意地蔵
船坂では、船坂山王神社にお参りし無事をお祈りした
白水峡の脇を通る
昨年の台風による山崩れのあと
有馬の町に入る
まだ早いからか人影は目に入らない
「金の湯」に到着したが、まだ開いていない。
金の湯に40分滞在し3回湯に浸かる。継之助の5回よりは少ない。
湯から上がってからのビールは格別旨い。
当時でも有馬近くの三田では川本幸民がビールを醸造していたが、継之助が飲んだかは知るところではない。
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