会社OBの新年会が京都であり、時間待ちもかねて近くの黒谷さんに寄って来た。
ここ金戒光明寺には、会津墓地を別にすると、10人強の幕末に活躍した人々が眠っている。
京都府知事植村正直の父羽仁敬斎、
戊辰戦争時に山陰道鎮撫総督西園寺公望の知遇を得た高木文平、
徳川家茂・孝明天皇などに優れた包丁の技術で叡慮を賜った生間正政、
戊辰戦争時、北陸道鎮撫総督であった高倉永祐、
油商を営んだ近江屋井口新助、
長州藩志士にアジトを提供した今井似幽、
大坂生まれだが会津藩の足軽部屋に入り松平容保と共に上京した会津小鉄、
山水画を得意とし、山内容堂・松平春嶽などに可愛がられた日根野対山、
和宮降嫁に組したため、家臣賀川肇の腕を投げ込まれた千種有文、
和宮降嫁に反対し、幕府から朝廷での悪謀画策の代表者とみなされた徳大寺公純、
大和五条の義挙、生野の義挙に尽力した北垣国道、
そして、いち早く議会制度を提唱した赤松小三郎など。
小三郎の墓をお参りすると、墓標が新しく御影石で建て替えられていた。
石の側面と裏面には、薩摩藩の門人が建立したときに刻んだ文字がそのまま新しい墓標にも刻まれている。
墓石の台座には新たに、建て替えの経緯が、
「墓石のひび割れが全面に拡大した為 信州上田市上田商工会議所第十四代会頭久保忠夫氏の篤志により塔身を建て代えた
平成二十三年十月吉日
赤松小三郎顕彰会
伊東邦夫記述」
と彫られている。
赤松小三郎の菩提所である善教院と、墓石を造った光明寺門前の石材店にお邪魔し確認すると、2月初旬になって建立したとのこと。
旧墓標を撤去し上田に持っていく前に直接拓本をとり、判読しにくい文字は住職が長年調査したてきた文字で補ったとのこと。
拓本をとってすぐに刻んだのではなく、追加の文字もあったので、しばらく時間をおいてから刻んだらしい。
いずれにしろ、刻んだ文字は、以下の通り
先生姓源諱某赤松氏称小三郎信濃上田人
也年甫十八慨然志於西洋之學受業同國佐
久間修理及幕府人勝麟太郞東自江戸西至
長崎游方有年多所發明後益察時勢之緩急
専務英學於其銃隊之法也尤精嘗譯英國歩
兵練法以公于世會我邦兵法採用英式旦夕
講習及聘致先生於京邸取其書更使校之原
本而肆業焉今歳之春 中将公在京師也
召見賜物先生感喜益尽精力而重訂書成十
巻上之 公深嘉称速命剞○将以有用於
天下國家也蓋先生平素之功於是乎為不朽
可不謂懿哉不幸終遭緑林之害而死年三十
有七實慶應三年丁卯秋九月三日也受業門
人驚慟之餘胥議而建墓於洛東黒谷之塋且
記其梗概以表追哀意云爾
薩摩受業門生謹識
○は該当漢字を見つけられない
概->木は偏ではなく脚、該当文字見つけられなかった
墓標としては旧墓標をそのまま復元できたので、大変喜ばしいことと思う。
ただ、この墓標の文章は、何も知らない薩摩藩の門人が記したのであれば問題はない。
佐久間象山に学んだこと、盗賊に害されたこと、などの事実誤認は単なる知らなかったことによる間違いとして見過ごせよう。
しかし、島津久光が京を離れる前日に計画的に殺め、それを知っている人間が文章を書き、墓標を建立したのであれば、その墓標の下に眠っている小三郎は喜んではいないはずだ。
しかしまた別の見方もできる。
これからは墓標が読みやすくなることもあって、長年隠されてきた薩摩藩としての行為の不実を証拠立てる史料として、永く世間に伝えていけるという側面である。
小三郎はどう思っているのか、聞いてみたいものである。
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