久し振りに人形ネタ

松平容保が勤めた京都守護職上屋敷の敷地に、維新後、明治4年に京都府庁が移転し、一度他に移転した後、再度明治18年京都府庁が置かれた。
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その後建てられた庁舎は、2004年12月に竣工100周年を迎え、また同月、道府県の旧庁舎としては三重県・北海道・山形県山口県の旧庁舎に次いで全国で5番目の国の重要文化財に指定された。
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現在は日常的には使用されていないが、重要文化財の指定を機に、この旧本館の活用のあり方が検討され、活用方法の一つとして、「京都府庁旧本館連続講座」が企画された。 内容は、京都府庁の周辺に宮内庁御用達などの老舗が数多くあり、歴史と文化に培われた「京の伝統・文化」についての講演会。 第4回目になる9/19の講演は、「京都匠・京人形」と題し、安藤桂甫氏の京人形のお話。
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氏は、安藤人形店の二代目で、2001年に国の「現代の名工」表彰を受けている。 大正13年生まれの86歳だが、各地で雛人形をベースに子供たちに平和を語り継ぐ。 今回の講演会でも、軽妙な語り口で、お雛様を始め京人形について興味深い話を拝聴した。 戦がある時は文化は発展しない。 「衣食を足って礼節を知る」、戦のない江戸時代は、260年間で、雛文化は大いに発展を遂げた。 男女一対の人形を「雛」と呼んで、幼い子供たちの健康と幸福を祈って祀るほほえましい伝統行事は、世界広しといえども日本だけ。 元々は、上巳(三月の初めの巳)の日に、水辺に出て不浄を除くためにみそぎを行っていた。のちに、このみそぎの道具として「人形(ひとがた)」が使われ、汚れや厄災を流す意味から人形を川や海に流していた。 この上巳のみそぎの人形(ひとがた)と平安時代からの幼女の「ひいな」遊びの小さな人形とが結合して、後の雛人形へとつながっていく。 中世以降は次第に立派なものになり、織物等の良いものもでき、宮廷の階段をまねて雛の段も登場し、雛まつりが徐々に盛大になった。 桃の木は邪気を払うという意味もあり、江戸時代の少し前から雛祭りは3月3日に定着する。 江戸幕府五節句(人日、上巳、端午、七夕、重陽)を制定したこともあって、宝暦年間(1751-64)以降は、京都を主としていた人形文化が江戸へも広がることになる。 江戸時代の京都で作られた雛人形は、北前船により消費地・京都に紅を納めていた、山形の酒田、寒河江、谷地、天童地区に、今でも多く残されている。 何故、古い人形がそのままの形で崩れずに残っているのか?その当時使われた材料・技術について、今に続く興味深い話を拝聴した。 雛の歴史以外に、氏自らの経験から、戦後の雛人形の顧客、雛人形制作の分業体制、各部位制作の専門家とその人数、京人形商業協同組合の組合員の変動、雛人形の飾り方、流し雛から立雛・座雛への移り変わり、等など制作当事者ならではのお話を聞くことができ、大変勉強になりました。 また、最後に飛び入りで話された氏の知人の紹介によると、氏は特攻隊に志願した程の勇敢な人であるとのこと、柔和な人柄からは窺えないことで、氏の生き方に感じ入った講演会でした。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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