下関長府訪問

9/13より4泊5日の日程で、下関長府を半年ぶりに訪れた。 目的は長府博物館での史料調査。今まで知りたかったことが9割方判明した。 調査未了の1割は長府では情報が得られないので、別途信州訪問を計画するつもり.
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9/13は月曜で博物館が休館でもあり、午後から半日、既知の長府城下町を歩き回った。 落ち着いた雰囲気で変化が少ない地域だが、半年の間に変わったことがある。 「龍馬伝」の影響からか、観光案内のためいくつかの案内板が新規に建っていた。 年初に建てて置きたかったらしいが予算の関係で今夏になった由。 http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2010/0914/15p.html 案内板の形と大きさは統一されている。 御影石の台座はいろは丸の舵輪、その上に帆をイメージしたステンレス製の板がのっている。高さ1.5メートル・幅60センチの各々の案内板には、人物写真と解説が記されている。今回通りかかった主な場所は以下の通り。 印藤聿生家跡
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三吉慎蔵生家(小坂家)跡
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三吉慎蔵邸跡
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印藤聿墓所
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三吉周亮墓所
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三吉慎蔵墓所
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下関長府は龍馬にとって特別な場所だ。お龍を住まわせ活動拠点とし、最後は終の棲家にしたかったのではないだろうか。 時勢が動き龍馬も薩長が手を結ぶように働きかけを行った。その成就に向け、当初より長府藩の果たした役割は大きかった。その長府藩に交渉の成り行きを見届けさせ、また京都の時勢を確認させる目的で、龍馬は長府藩士の同行を求めた。 慶応元年12月29日の印藤宛て書簡で、龍馬は長府藩士1名程を上京させてはどうかと述べる。 長府藩士の同道は、情勢探索のためであり、もちろん警護のためではない。 印藤は、初めは自分で行くつもりであったが、事情により取りやめ、中岡慎太郎と行き来のある熊野九朗と、印藤と同じ歳で昵懇の三吉慎蔵の2名を推挙する。前者は藩きっての才士、後者は謹厳無双と言われた。龍馬は実直で秘密が守れる人として慎蔵を選び、共に京に上る。 9/13の晩は、龍馬に三吉慎蔵を紹介した印藤聿のご子孫の豊永邦一さんと初めて歓談した。 山口県立豊浦高校OBの中村さん、吉井さん、白石さんと渡部さんの尽力で実現できた。 皆さん、ありがとうございます。以下はその時の記事。 山口新聞9/15朝刊
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