碑の移動、その理由は様々だ。
1.「沖縄戦英霊記念の碑」
沖縄戦帰還者や遺族らでつくる「北海道沖縄会」が多額の寄付を募り、1965年に建立。
遺族が高齢化し維持管理が大変だという背景から札幌護国神社に碑を移設したいとの話が出たが、一部遺族が反対している。
http://www.hokkaido-365.com/feature/2010/09/post-589.html
2.「徳島慶應義塾跡記念碑」
2001年4月、『独立自尊』と刻まれ、福澤諭吉没後百年を機に徳島県の卒業生組織である徳島慶應倶楽部が建立。
その後、碑のある敷地の所有者が次々と変わったため、将来のことを考え移設を計画、2009年7月に、徳島県庁敷地内に県庁側の理解を得て移設した。
http://www.keio.ac.jp/ja/news/2009/kr7a43000002190g.html
3.「西郷隆盛留魂碑」
1883年、勝海舟が西郷隆盛の死を悼んで葛飾区薬妙寺境内に建立。
1913年に荒川の改修工事があり 碑のあった所が河川敷になるため、洗足池畔の「勝海舟夫妻の墓」の隣に移設した。
http://www.city.ota.tokyo.jp/midokoro/spot/topimage_guide/top_saigou_katsu/index.html
4.「江戸開城 西郷南州・勝海舟 会見之地碑」
1954年、薩摩藩の蔵屋敷が在った場所に本芝町會が建立。
当初碑の建立予定地は、現在の三菱自動車ビルの隣、徳栄ビル(当時は製紙会社の倉庫)の前であったが、トラックの出入りに邪魔なるとのオーナーの山田徳三氏の話を当時の三菱重工自動車部の庶務課長が聞きつけ、50メートル以上移動させた。
余談だが、その後1960年から、小生は倉庫敷地内にあった平屋一軒家(蔵屋敷のど真ん中)で4年間暮らした。
建立時の写真はここhttp://www.honshiba.com/about/index.html
5.「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」
1926年、益次郎が襲われた「木屋町長州三番小屋旅館」(の辺り)に、碑を建立。
最初に建てたのが、二番路次とも十番路次とも判然としない。今現在は、割烹竹島の敷地の端に建つ。
その前は竹島玄関への路次入り口近くにあったが、人の出入りに邪魔なので木屋町側の敷地を買い取った時に碑を移動させた。
今現在の碑がある位置がその史蹟のあった場所と思いがちだが、実際は異なることもまま目にする。
時間の流れの中で、碑の維持費用が捻出できなくなる、建物の改修時に移動させる、人の流れや物の動きの邪魔になるなど、様々な理由から碑は元の場所を離れる。これは致し方ないことなのか。
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