大村益次郎の遭難場所

益次郎が遭難した場所を調べている。

木屋町通御池上る東側、割烹竹島の敷地に「兵部大輔大村益次郎公遺址」の碑が建っている。

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京都市歴史資料館の「フィールドミュージアム京都」のいしぶみデーダベースには、

所在地 中京区木屋町通御池上る東側

位置座標 北緯35度00分31.1秒/東経135度46分23.7秒(日本測地系)

碑 文

[西] 兵部大輔従三位大村益次郎公遺址

[東] 大正拾五年四月

陸軍少将山口鹿太郎建之

[南] 維新征東ノ殊勲国民皆兵ノ提唱京阪地方兵備ノ

   創建者タル公ハ明治二年九月四日当十番路次内

   ニテ反賊ニ襲ハレ重傷遂に薨去セラル

とあり、以下のコメントがある。

 この石標は,大村が襲撃された宿所の跡を示すものである。なお碑文には「十番路次」と記すが,当時の史料や大村の伝記には「二番路次」と記している。

http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na087.html

小生も、一時、色々調べたのだが実は正確な遭難場所はまだ分からない。

これから確定していきたいが、区切りとしてその中間の報告をしておきたい。

最寄りの図書館などで調べたが、

よく観られる「維新史蹟図説」大正13年、「京都維新史蹟」昭和3年、には、明治2年の遭難は記載がない。

従って、以下の資料を主に参考にした。

1.「大村益次郎先生事跡」村田峰二郎編著 大正8年11月

2.「史跡めぐり」寺井史朗編 昭和9年1月

3.「近世軍政の創始者 大村益次郎」田中惣五郎著 昭和13年5月

4.「維新の史蹟」大阪毎日新聞 昭和14年6月

5.「大村益次郎先生小伝」井上清介編著 昭和16年3月

6.「大村益次郎大村益次郎先生伝記刊行会編 昭和19年4月

7.「京都百年」京都新聞 昭和40年2月より連載

8.「大村益次郎」糸屋寿雄著 昭和46年7月

9.「大村益次郎の生涯」木本至著 昭和51年11月

10.「証言=明治維新 11月5日大村益次郎暗殺さる」川野京輔 昭和52年1月

遭難場所と間取り図について、上記資料での記述は各々以下の通り。関連個所をあげておく。

【】は小生が補っている。

1.

 ①「三條木屋町の二番路次」、「三條の旅館」、「木屋町の旅宿」

 ②「上京区木屋町なる二番路次某宅」(田中春風)

 ③「先生の居室は、狭隘にして、治療上及警衛上共に不便なるを以て其近傍なる河原町長州藩邸に、移転療養」(田中春風)

 ④【田中春風は、遭難状況の説明の中で間取りを概ね記述している。但し間取り図の記述はない。】

2.「木屋町二條下る寓」

3.遭難場所は、1.とほぼ同じ

4.「木屋町二條下ル現在玉之屋文福両旅館のところにあった長藩控屋敷」

5.①「木屋町二條下る二番路次(現今玉の家文福旅館の処)長藩控屋敷」

  ②「間取り図は、田中春風氏の間取り図に【井上の】推断を加える」

  ③「中川氏の遭難場所図は竹島屋に極似、竹島屋は明治13年頃旧長藩控屋敷を改装し席貸しを開業」 

   「但し中川氏は、竹島屋は一軒置いて隣家【隣家が遭難場所】、としている」

6.①「三條木屋町二番路次の長州藩控屋敷」

  ②「三條木屋町にある旅寓」

  ③「京都木屋町三條旅寓にて・・・」広沢真臣日記

  ④「京都木屋町三番路次の寓にて・・・・・」木戸行孝允日記 

  ⑤「旅寓では病室が狭いので、9月7日に程近い河原町長州藩控屋敷に移した」

  ⑥【遭難図は、井上清介の図を流用している】

  ⑦ 第27章 大村益次郎卿遭難之碑

   「(益次郎の遭難場所は)木屋町下ル二番路次長州藩控屋敷(現今玉の家文福旅館の所在地)において、刺客のために創傷を受けた真向うの木屋町御池上ル(現今京都ホテル東側)高瀬川畔に大村益次郎卿遭難之碑碑を建立」 

  ⑧大村兵部大輔負傷ノ件 【明治2年9月4日~5日の公文書】

   「木屋町二條下ル京都槇村権大参事旅亭」

   「長州二番小屋露路即森寺従六位宅」、「木屋町二条下弐番小屋」

   「大村旅宿 「木屋町長州三番小屋旅館」 

   「只今空屋敷ニ於テ、詮議中」【注:空は控の間違いと思われる】

  ⑨刺客の口供

   「兵部大輔殿旅寓」伊藤源助

   「木屋町旅宿」団伸二郎

   「木屋町旅寓」太田光三郎)

   「木屋町旅寓」金輪五郎

   「兵部大輔殿旅寓」金一郎

   「兵部大輔殿旅宿」神代直人

7.「木屋町二条下ルの長藩控え屋敷」

8.「木屋町二条下ル二番路次にある長州藩の控屋敷」

  【遭難場所見取り図は、井上清介の図を流用している】

9.「長州藩三番小屋(控屋敷とも呼ばれた)実は旅館」

10.「三条木屋町にあった長州控屋敷」

  

以上のことから、以下の問題点が見えてくる。

長州藩「控屋敷」は、大阪毎日新聞「維新の史蹟」が初出かと思っていたが、遭難に関わる明治2年9月5日の公式文書の「空屋敷」が「控屋敷」であれば、「控屋敷」は遭難当時には存在していたといえる。

 その場合、  

 壱番小屋は槇村亭、弐番小屋は森寺宅、参番小屋は旅館として使用しているが、

 壱番小屋、弐番小屋、参番小屋だけを控え屋敷と呼んでいたのか?

 それとも、借り上げた多くの屋敷を控屋敷と呼んでいたのか? 

②間取りは、田中春風の記述をベースに井上清介が間取り図にしたものを、その後は無批判にそのまま使用している。

③遭難場所については、時系列的には以下のとおり。

 

当時の一次史料が通常は一番信用できるが、その意味では

現場京都からの東京への益次郎遭難の状況報告、刺客の取調べ資料をまず調査するのが良いだろう。

遭難当日・翌日の公文書では、「大村旅宿」=「木屋町長州三番小屋旅館」。

その後、遭難49年目の大正8年出版の「大村益次郎先生事跡」では、「三條木屋町の二番路次」、この「二番路次」は以前の資料でも出ているかもしれない。

遭難56年目の大正15年に予備役陸軍少将山口鹿太郎が建立した碑には、「當十番路次内ニテ反賊ニ襲ハレ」とあり、この碑の建立場所に「十番路次」と刻まれている。

碑の内容と建立場所が正確か否かが問題。

古写真にみる碑の建立場所と今との関係も問われる。

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更に8年後の昭和9年には、「史跡めぐり」寺井史朗編が発行され、そこでは、「木屋町二條下る寓」、

またこの年、「大村益次郎卿遭難之碑」が建立される。

  碑の表

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  碑の裏

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昭和14年1月より大阪毎日京都版に70回にわたって連載された「維新の史蹟」の中では、「木屋町二條下ル現在玉之屋文福両旅館のところにあった長藩控屋敷」と、具体的に現旅館名をあげる。

この二つの旅館が今のどこに相当するのか、が問われる。

昭和16年の「大村益次郎先生小伝」では、

木屋町二条下る二番路次(現今玉の家文福旅館の処)長藩控屋敷」

「遭難場所図に似ている竹島屋は、明治13年頃旧長藩控屋敷を改装し席貸しを開業」、

 但し(遭難場所は)「竹島屋の一軒おいて隣家」としている。

「維新の史蹟」を踏襲した「玉の家」「文福旅館」と遭難場所との位置関係はどうなのか、明確にする必要がある。

また、「明治13年頃開業の竹島屋」が、「現在の割烹竹島(前身は明治30年創業の竹島旅館、昭和48年旅館廃業)」と同じか否かが問われる。

昭和19年の「大村益次郎」では、「三條木屋町二番路次の長州藩控屋敷」

しかも、「第27章 大村益次郎卿遭難之碑」では「(益次郎の遭難場所は)木屋町下ル二番路次長州藩控屋敷(現今玉の家文福旅館の所在地)において、刺客のために創傷を受けた真向うの木屋町御池上ル(現今京都ホテル東側)高瀬川畔に大村益次郎卿遭難之碑碑を建立」としている。

遭難之碑を建立して10年後に、碑を建てた場所の真向こうが「益次郎の遭難した木屋町下ル二番路次長州藩控屋敷(現今玉の家文福旅館の所在地)」としている。

ここでは、遭難場所について「維新の史蹟」の影響が見られる。

留意すべきは、この「大村益次郎」記述の「碑の真向こう」だけ注目すれば、現「幾松」の辺りになる。

後世のこのコメントにどれだけ信憑性があるのかが問われるところ。

いずれにしろ、碑は後から建立しコメントを付けたわけなので、調査の原点は、遭難の「木屋町長州三番小屋旅館」がどこかを、当時の地図、当時の史料とその後の史料から、住所名の変遷をたどり、突き止めることに尽きる。

その場合、「維新史蹟図説」に「木屋町三十五番路次」の項で、吉村寅太郎の仮住居を紹介している。意外とこれ等がヒントにになるかも知れない。

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