草津宿から石部宿を通り水口宿まで、近江平野を26キロ歩く。
天気予報は最高気温が11度。
草津駅にて出発のセレモニーを終え、準備体操をして、
0830昨日ゴールした、田中七左衛門本陣の近くの追分まで戻る。
追分の常夜燈
草津宿は東海道と中山道の結節点であり、中山道と別れるこの追分から旧草津川沿に東海道を歩き始めた。
0919田楽発祥の地、目川を通り過ぎる。石部宿より草津宿に近いが、広重は東海道の浮世絵ではこの目川の田楽の店頭を描いている。
0929江戸参府紀行にシーボルトが訪れたと記述のある善性寺を通過する
シーボルトは、文政9年(1826)2月5日から7月7日まで、長崎出島と江戸を往復している。
説明版には、江戸からの帰途、「かねてより植物学者として知られている僧恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を見物せり」とある。
これから先の東海道沿いでも、ケンペルやシーボルトなどのオランダ商館の一行の立ち寄った案内板をよく目にするようになる。
0950「九代将軍足利義尚公鈎陣所ゆかりの地」を通過する。
義尚は自ら出陣し敵対する六角氏を追い払った後、この「鈎の陣」にて連日酒宴・遊興にふけり、25歳で亡くなっている。
1039六地蔵一里塚(日本橋まで118里)を通過する
このあたりからは、近江富士がよく見える
1043有名な旧和中散本舗を通る
家康の腹痛を直したことで有名になり、家康が「和中散」と命名する。ケンペルもシーボルトもこの道中薬「和中散」を求めたという。
和中散薬を営む店は多い時で6~7軒あったが、大角弥衛門家は小休屋も兼ね、多くの大名が休息に立ち寄ったという。屋敷内には国の指定名勝になっている小堀遠州作の庭園もある。
1126石部宿の西縄手を通過
縄手は、立場と立場の間の道のこと。この西縄手は宿内に入る前に参勤交代の大名が行列を整列した場所という。
石部宿は、
京から江戸へ向かうときは京発ち石部泊りといわれ、最初の宿になることが多かった。
ちょうど距離が九里で一日の行程になる。
戸数458戸、人口1,606人(うち男798、女808)、本陣2軒、脇本陣0軒、旅篭32軒がある。
広重は、石部宿として、目川の名物田楽豆腐を売る茶店「いせや」の店頭を描いている現在の目川のいせや址
1143石部宿の小島本陣跡を通過
小島本陣の宿帳によると、幕末では徳川家茂、一橋慶喜、近藤勇などが宿泊している。
石部宿駅
1240昼食後、石部宿を出立
宿場と宿場の距離で3里以上の間があるのは11か所あるが、石部~水口は3里12町あり、7番目の長さになる。
ちなみに、①箱根関-小田原(4里8町)、①浜松-見附( 4里8町)、③小田原-大磯( 4里)、④地鯉鮒-岡崎( 3里30町)、⑤三島-箱根( 3里28町)、⑥大津-草津( 3里24町)
石部宿を抜けると、天井川が次々と3つ現れる。
家棟川、由良谷川、大沙川で、今は明治に作られた川下の隊道を通る。
由良谷川は天井川を廃し平川にする工事の最中だった。
天井川で有名なのは草津川だが、川床が河川両側の平地よりも著しく高い川をいう。土砂の堆積が多くて氾濫性の大きい川の場合に人口の堤防によって川の氾濫を防ぎ河道の固定を図ると、川床がだんだん高くなる。
大沙川に沿って南に辿ると、三雲城があるらしい。
「鈎の陣」の夜襲で有名な、六角氏に仕えていた三雲新左衛門の居城で、その子・三雲佐助賢春は、猿飛佐助のモデルとなっている。
1432野洲川は今は横田橋で渡る。横田橋を過ぎると、横田の渡しの大きな常夜燈が見えて来る。横田の渡しは、江戸時代には13渡しのひとつとして重要視されていた。
常夜燈は東海道でも最大級の大きさを誇る。
1517北脇縄手を通過する
江戸時代、道がまっすぐに伸びるこのあたりは、今は面影がないが土手の松並木だったという。
1528西見附跡を過ぎて、水口宿に入る。戸数692戸、人口2,692人(うち男1,314、女1,378)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒。広重は名産の干瓢を描いている。干瓢は、藩主加藤氏が旧領地の下野国の壬生に倣ってその製造を教えたことによるという。
直ぐに、下級武士が住んでいた百間長屋跡を通る。
1536水口城に到着。今日はここまで。
参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道」
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