水口宿を出立して土山宿を通り、難所の鈴鹿峠を越えて近江国から伊勢国へ入り、坂下宿を抜け、関宿まで31キロを歩く
0800水口宿出立
水口曳山祭りの山車蔵
0809宿場内は、北の道、中の道、南の道に分かれる。その別れ地点にからくり時計が置かれている。
0821二股分岐の高札場を通る
残念がら、道中から外れているため、有名な牛が淵の跡は見れなかった。
関ヶ原の合戦前に水口岡山城主長束正家が、茶室を新調して家康を招待しようとした場所。
この茶室は仕掛けがあって牛が淵に落ちるようになっていたが、百姓の密告より家康は難を逃れた。その場所は今は面影はない。
0825宿場の東端の東見附跡を通る。
0914高札場跡と、司馬遼太郎の碑
0918今郷の一里塚(日本橋まで112里)
0952明治天皇聖蹟碑、これからも道中で多く見ることになるが、字体が面白い
1019反野畷の松並木
1029国指定史跡の垂水当頓宮御殿跡を示す
1046土山宿に入る。戸数351戸、人口1,505人(うち男760、女745)、本陣2軒、脇本陣0軒、旅篭44軒。土山は雨が多いところで、広重も春雨を描いている。右から田村川が流れ、鈴鹿峠を下って来て、木橋を渡る合羽を着た行列の先には田村神社の森や木立がみえる。田村神社には鈴鹿峠に巣窟っていた盗賊を退治したという坂上田村麻呂を祀っている。
土山宿は2.5キロの長さで、東海道の中でも有数の長さを誇る。
かっての旅篭を示す石柱が家々の前に建てられその数多さが分る。
1108大黒屋跡、土山宿問屋場跡、土山本陣跡、二階屋本陣、旅篭井筒屋跡など宿場の中心に達する。
土山本陣には、宿帳に、幕末で16,370件の休泊者が確認でき、松平容保や勝海舟の名もあるという。
旅籠井筒屋は、森鴎外の租父、典医森白仙が参勤交代の途次、息を引き取ったところ。鴎外の「小倉日記」に記されている。
1125土山宿を抜け、昼食
1210田村神社を通り、これから鈴鹿峠を目指す
1218蟹坂古戦場跡
1223猪鼻の集落の、旅籠中屋敷の碑と明治天皇聖蹟
1259鈴鹿峠を登リ始める、有馬登山よりは楽
1327万人講常夜燈
1337鈴鹿峠に到着
1342鈴鹿峠を下り坂下宿へ向かう、峠の近くから遥か彼方に伊勢湾が望める
1354鈴鹿流薙刀術発生地
元々この辺り、多津加美坂の始まり辺りに宿があったが、大雨に崩れて慶安の頃、坂下に宿が移る。
1416坂下宿に到着、戸数153、人口564人(うち男272、女292)、本陣3軒、脇本陣1軒、旅篭48軒
宿は上り下りの旅人で賑わい、江戸時代は大きな旅籠が軒を並べ、本陣、脇本陣の規模は街道一とも言われた。難所の鈴鹿峠越えを前に繁盛したその面影は今は全くない。
この坂下宿では、文政8年(1826)シーボルトは江戸へ向かう途中で鈴鹿峠を越え、坂の下でオオサンショウウオを捕獲し、母国へ持ち帰っている。ライデン博物館で標本として残されている。
1429鈴鹿馬子唄会館にて坂下宿の展示拝見
1506四軒茶屋の辺り、伊能忠敬図に、家屋と「筆捨茶屋」の文字が記されている。
ここが、広重の「阪之下<筆捨嶺>」の展望地
1527「転び石」、山から落ちてきテ唸り声をあげ人々を怖がらせていたという。
1534関宿に入る、戸数632戸、人口1,943人(うち男1,008、女934)、本陣2軒、脇本陣2軒、旅篭42軒
歩いた距離は32キロ、本日はここまで。
宿泊は四日市少年の家。お酒の持ち込みも禁止なので、少年の家に着くまでの間、バスの中で痛飲した。
参考: 風人社発行「ウォークマップ ホントに歩く 東海道」
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