『 雨窓紀聞 』と『 麥叢録 』との関係について

先日、ヤフーオークションに『雨窓紀聞 下』が出品されたのをfacebookの投稿で知った。 確認すると、商品説明は以下の通り、 [題名] 雨窓紀聞 下、[著者] 竹陰穏士(小杉雅之進) 咸臨丸蒸気方 江差奉行並、 [発行所・発行年] 北畠茂兵衛 明治6年、 [仕様] 木版本 本の大きさたて22cm×よこ15cm 総二十丁 [状態] 少汚れ・少落書き・少イタミあり

商品画像を確認したが、後世の写本ではなく、出版されてすぐに絶板になった『雨窓紀聞 下』の本物に間違いはない。 『雨窓紀聞』上下二冊が明治6年3月に青藜閣より出版されたあと、翌明治7年7月に『麥叢録』乾坤二冊が小雅堂から出版された。この経緯は、小杉雅三(雅之進の改名)が『麥叢録』で大まかには以下のように述べている。          『雨窓紀聞』

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         『麥叢録』

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 明治2年に津軽弘前に幽閉されていた時に、北海戦闘の顛末を見聞したまま記述し、『麥叢録』と題して、後に親族や知己のため小冊子に纏めた。もとより出版するつもりなどは考えてもいなかった。 ところが、明治6年の夏、病床にて北海戦の事蹟を記録した『雨窓紀聞』を新聞で見た。早速取り寄せてみると、自分が編纂した『麥叢録』の題名を替えて出版されており、しかも序跋には小杉の名までみえる。 調べてみると、果たして某氏の為せるわざであったので、已むを得ず公の裁断をもって絶板にして貰った。 私録にしておく積りであったが、友人たちの勧めもあり、一旦世に出たことでもあり、正式に出版することにした。出版にあたっては若干見直し校正を加えた、 とある。

従来より、この両書についての僕の関心事は、雅之進に黙って『雨窓紀聞』として出版したのは誰なのか、そして雅之進が正式に出版した『麥叢録』との関係はどうなのか、ということ。つまり両書の成立にまつわる真相を究明したいこと。

雅之進は、『雨窓紀聞』を持込んだ者は某氏としか言っておらず、自分との関係を述べていない。 親族や知己のため小冊子に纏めたとあり、この冊子の写本が持ち込まれたことになるが、親族とは、雅之進の兄・直吉の小杉一家、養子にした辰三の実家・細谷十太夫、姉の嫁ぎ先の甥・河島由之、母親の楢林家くらいしか思い浮かばない。しかし親族が勝手に出版したとはとても思えないので、知己のうち箱館戦争に縁のある誰かではないかと思えてくる。 この件はこれからの調査になる。

いずれにしろ、『雨窓紀聞』の和綴じ本の現物は見たことがなく、手にしてみれば新たな事実が判明するかもしれないと思いオークションに出品された原本に関心を持った。すぐにオークションに参加しようと思ったのだが、残念ながら理由は不明だがアクセスを拒否され参加できない。 出品されたのは、『雨窓紀聞』上下二冊のうちの一冊「下」だけなので、すぐに諦めてしまった。 この『雨窓紀聞 下』だけでは、両書全体の成立過程はまだ明確にはできないと判断したからだった。 本来は上下二冊を同時に入手したいのだが、 一冊であれば出品の「下」よりも、むしろ「上」の方が情報量も多く良かったからでもある。

両書の中身については、いずれも函館市中央図書館デジタル資料館や国会図書館デジタルライブラリなど確認できるが、以前から次のような相似が気になっていた。 『雨窓紀聞 上』と『麥叢録 乾』との本文は、原稿用紙形式でなって居るのだが、イントロの部分と最後の頁の2行こそ違え、3枚目の5行目から22枚目の最後直前まで、一部の字を除けば全く同じなのだ。『雨窓紀聞 下』と『麥叢録 坤』とは、1枚目の書名と著者名の2行と、本文最後の30枚目の後書き相当部分が異なるのみで本文は同じである。 同じという意味を厳密にいうと次のようになる。

①どちらも、400字詰め原稿用紙(20字10行 x 2)の形を取っている。

②原稿用紙には、中央部分に、各々、「雨窓紀聞」、「麥叢録」とあり、各々専用の原稿用紙に記述した体裁を取っている。より正確には、以下の通り。 『雨窓紀聞 上』は「雨窓紀聞 巻上」、『雨窓紀聞 下』は「雨窓紀聞 巻下」 『麥叢録 乾』は「麥叢録 巻上」、『麥叢録 坤』は「麥叢録 巻下」

③両書を比較して、本文の字が全く同じ筆跡である原稿用紙は、「原稿用紙の名称」が異なるのみで、原稿用紙の周りの線(線の濃淡・線の欠け箇所)も全く同じである。 これは、全原稿用紙の52枚のうち46枚にも及ぶ。

④ ③の中でも一部の語句の異なる(『麥叢録』で改訂している)原稿用紙は数枚あるが、原稿用紙の特徴(線の濃淡、線の欠け)は全く同じである。

以上の事から、次の事が分る。 ①原稿用紙の体裁を取っている本文について、『雨窓紀聞』で使用した原板を、原稿用紙名を入れ替えて、『麥叢録』でもそのまま使用していること。 従って、出版社は違っても、『雨窓紀聞』の原板を譲られたか、同じ印刷所で『麥叢録』を印刷したと考えることができる。 ②特に本文のイントロ部分は、原稿用紙3枚目4行までの41行は新規に文章を作成し直しているが、3枚目の4行目途中からは、『雨窓紀聞』と同じである。 上が『雨窓紀聞』、下が『麥叢録、 原稿用紙の線も同じであることに留意

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従って雅之進は、『麥叢録』の出版に当たって、新規に板を起こすのではなく、『雨窓紀聞』と同じ原板を使うことを前提に文章を起こし改訂していることが分る。 原稿用紙3枚目の最後の2行だけ異なる、 原稿紙の周りの線も薄れてはいるが、同じ 

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原稿用紙4枚目、 先頭行のみ文章が異なる、周りの線も同じ

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全く同じ原稿用紙の体裁、 「原稿用紙の名前」だけ異なる

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このことから、『雨窓紀聞』の原稿(雅之進の纏めた冊子の写本)とそれを持ち込んだ人物、出版した青藜閣、『雨窓紀聞』の原版活用を考えた人、『麥叢録』を改訂した雅之進、『麥叢録』を出版した人などなど、各々のつながりが想像できてなかなか面白い。

『雨窓紀聞』には、青藜閣の北畠茂兵衛と北澤伊八の名がある。北畠茂兵衛は屋号が須原屋茂兵衛で9代目になる。北澤伊八は、須原屋茂兵衛から暖簾分けされた須原屋伊八のこと。 まだ確認はしていないが、 『雨窓紀聞』の出版人のひとり北畠茂兵衛と同じ名が、『麥叢録』を出版した書店・小雅堂にもあらしい。そうであれば原板の再利用は、出版費用の削減の面からも、出版時間の迅速化からも、大きなメリットがあったというべきだろう。

ところで、 『麥叢録』の出版社「小雅堂」は江戸時代からの古くからの店で、もちろん「小杉雅三」からと採った名前ではないが、たまたまにしては出来過ぎのような気がしている。

 

 

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福澤諭吉と小杉雅之進の写真

開陽丸子孫の会による主催で横浜開港資料館を訪れたおり、資料館の協力を得て、寄託されている先祖の史料を拝見する機会に恵まれた。 その中の一つに、小杉雅之進の写真があった。 小杉雅之進の18才の写真で、長崎海軍伝習所で三期生として当時の先端技術である蒸気機関について学んだあと、蒸気方見習士官として咸臨丸で渡米しサンフランシスコに滞在した時に撮影したもの。

この写真については、複写した画像を過去2回見ている。 最初は、2009年に北海道江差の開陽丸記念館にて、館内に掲げられていた画像(但し写真枠はなく、人物部分のみ)で、渡米時の写真を見た最初になる。

          開陽丸記念館の画像

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2回目は、2013年1月の霊山顕彰会発行の「維新の道」148号の「明治を創った人々」の紙面に「小杉雅之進」を寄稿した時に、横浜開港資料館から所有者の了解を得て取り寄せた、写真枠を含めた写真全体の複写。

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この時初めて枠を含めた写真を見て、当時の米国の写真技術に興味をそそられた。 そして今回初めて実物を目の当たりに見る機会が訪れたという次第。 この写真は、有名な「福沢諭吉写真屋の少女の肖像写真」と同じ写真館で写されている。

          福沢諭吉写真屋の少女の肖像写真

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紙の写真枠は全く同じなので、確認できなかったが、紙枠の左隅に、「Wm.SHEW/113 MONTG’Y,St/SAN FRANCISCO」の文字があると思う。William Shew写真館での撮影を表している。

写真は、ダゲレオタイプから、何枚でも作成できるネガ・ポジ紙焼き方式への転換期に、一時流行したアンブロタイプのもので、諭吉の写真も雅之進の写真も、裏に黒ニスを塗って白黒反転させている。 2009年に「未来をひらく福沢諭吉展」が開催されたが、その時の図録に、「福沢諭吉写真 写真館の少女と共に」の項で、諭吉の写真が掲載されている。

 平成20年に修復のため、写真板だけを取り外したときの画像 「未来をひらく福沢諭吉展」図録より

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その説明では、少女の頬と福沢の唇に彩色がなされているとあるが、『福沢諭吉写真屋の娘』の中で中崎昌雄氏は、諭吉の額、頬、眉の下にも桃色の彩色があると指摘している。 少女Theodora Aliceの拡大写真 頬は彩色されているのが分る

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彩色は雅之進の写真も同じで、桃色が施されているのが分る。 雅之進の拡大写真 少なくとも、頬は彩色されている

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なお、福翁自伝によれば、諭吉は、咸臨丸が日本に向けハワイを出帆したあとで、初めて写真を取り出し船中の人に見せ、羨ましがらせた。この少女は写真館主人の娘で歳は15位らしい。 諭吉は一人で写真屋にでかけたが、雅之進はいつ誰とどのように行ったか、一人だったのかは伝わっていない。 ましてや、その時写真館に自分に近い年頃のこの少女Theodora Aliceが居たのか否か、そして話をしたのかはもちろん分らない。 しかしこの二つの写真を見比べていると、想像を逞しくさせてはくれる。

 

 

 

 

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美嘉保丸遭難の余波

幕臣で海軍士官だった山田昌邦について、facebookで話題になり、気になって調べてみると、僕が従来より伝聞で聞いたことは間違っていた事が判明したので、記録しておきたい。 小杉雅之進は、仙台藩士で鴉組隊長の細谷十太夫の三男・辰三を養子にする。         晩年の小杉雅之進

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        三十代前半の小杉辰三

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細谷十太夫は、新政府軍に対して、夜間、黒づくめて奇襲攻撃をかけ連戦連勝で負けしらずで、敵方から恐れられていた。 この十太夫と雅之進が知己となった所以は、開陽丸が仙台に停泊している時に、十太夫が開陽丸と仙台藩との連絡係として働いており、信頼関係ができて、それが縁で辰三を養子に迎えることになったらしい。 戊辰の年に三男として生まれた辰三はのちに、東京製綱の会長となる山田昌邦の長女光子を娶っている。 この縁談はおそらく、雅之進と昌邦とが同じ幕府海軍の士官であったことが縁となっている。         晩年の山田昌邦

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慶應4年8月、榎本武揚率いる艦隊は蝦夷地をめざし、品川沖を脱出する。 その時,小杉雅之進は機関長として旗艦・開陽丸に乗り、開陽丸に二本の索(ロープ)で曳航されていた美嘉保丸に山田昌邦(当時は清五郎)が乗っていた。雅之進は26才、清五郎は21才だった。 美嘉保丸は、暴風雨に巻きこまれて曳航ロープが切れ、マスト2本も折れて航行不能となり、銚子の犬吠埼近くの黒生海岸へ漂着し座礁して沈没した。 このとき乗っていた将兵600余名の大方は、地元漁民の救助によって助かったが、生存者は土浦方面と江戸へ向かう者に分かれた。ただ新政府軍の追撃は厳しく、多くは投降する。但し遊撃隊の伊庭八郎ら一部は逃走に成功し、榎本艦隊への再合流を果たしている。

    美嘉保丸遭難者・刑死者の墓(静岡市寶泰寺)

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僕が間違えて覚えていたのは、「このとき、清五郎は逃亡に成功し、蝦夷地にわたり、最後は五稜郭で降伏した」ということ。 つまり、小杉雅之進と山田清五郎は、共に蝦夷地で戦い共に降伏したと、僕は伝聞で聞き覚えていたのだが、これは調べてみると間違いだった。

美嘉保丸の遭難について、『旧幕府』に山田昌邦本人の談話を記者が記事にしたものが載っている。 第四号「三嘉保丸の難破談 函館始末其二」、第六号「美嘉保異聞」の二つの記事。 難破してから江戸の深川高橋御徒士組屋敷に帰るまでが詳細に語られ、自首して牢に入り、後に赦免されたと明記している。従って箱館には行っていないと確認できる。 子母沢寛の『逃げる旗本』は読んでいないが、主人公が清五郎で、ほぼ同じ内容がつづられているらしく、底本としては『旧幕府』」の二つの記事であることは間違いがないようだ。

なお、山田昌邦は、美嘉保丸の遭難の時にロープの重要さに気づき、のちに東京製綱の創設を主導する。創設者の一人となった東京製綱株式会社の社史七十年史にも、「 『逃げる旗本』の主人公 山田昌邦翁」 の項で、『旧幕府』の記事とほぼ同じ内容の記述がある。

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また、以下の冊子にも、美嘉保丸の遭難について記述がある。

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余談だが、 小杉辰三は山田昌邦の長女光子を娶って、人生で大きな転機を迎えたのではないだろうか。 山田昌邦は明治20年の東京製綱の創始者の一人であり、辰三は明治39年の小林製鋼所(のちの神戸製鋼所)の創設者の一人。 辰三からみて、養父雅之進と義父昌邦とは、ともに旧幕府海軍士官であり、両者は開陽丸と曳航される美嘉保丸の関係にもあった。雅之進は、おそらく海軍時代の辰三に、知己の昌邦の娘を世話し、辰三は昌邦から鉄鋼分野の将来性と必要性を説かれ、海軍を辞め小林製鋼所の創設を志したのかもしれない。 そう思うと、美嘉保丸の遭難事件は、日本に二つの会社を興す切っ掛けになったといってよいのかもしれない。   

     上野大雄寺の小杉雅之進夫妻と小杉辰三・光子夫妻の墓

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永井路子さんを偲んで

永井荷風と、永井智子と永井路子(1925年3月31日-2023年1月27日)のお話

明治時代に長府毛利家の屋敷があった麻布市兵衛町に、時代は下って大正8年(1919)に永井荷風(本名永井壮吉)が偏奇館を新築し移り住む。

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そして旺盛な創作活動のなかで、才能豊かな荷風昭和13年(1938)に作曲家菅原明朗と歌劇『葛飾情話』を作って浅草オペラ館で上演する。これが日本人の創作した本格的な歌劇上演の試みとして話題を集めた。

このときの主役がアルトの永井智子で、智子はのちに菅原と結婚し、以後荷風と夫婦ぐるみの付き合いになっていく。

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荷風のお好みの住居だった偏奇館は、昭和20年(1945)3月10日払暁の東京大空襲で焼失してしまうが、それ以後、荷風は菅原夫妻を頼り、各所で空襲を逃れながら、最後は岡山に落ち着く。 永井智子は荷風の身辺の面倒をみて、3人は岡山で終戦を迎える。このとき、荷風は菅原夫妻と3人で帰京しようという約束を反故にして、切符を入手した音楽評論家の村田武雄夫妻と共に勝手に帰京してしまう。このことに気分を害した永井智子は以後荷風とは会うことはなかった。

荷風と智子とは永井という同じ姓だが、全く親類ではないと言われてきた。しかし永井路子によると、平成11年(1999)10月の神奈川県立近代文学館「永井荷風展」での講演「母・ 智子と荷風」にて、縁戚であることを明かしている。
いわく、永井路子の母方の「永井」は徳川家康三河生まれの家臣・永井直勝に遡る。のち永井直勝は下総古河に十万二千石の城主となっている。永井直勝と由利姫との間に生まれたのが永井正直で、荷風の永井家の先祖となる。つまり、路子は永井荷風の遠い縁続きになる。”(以下の市川市中央図書館 レファレンスによる)

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000035412

 

 永井智子は、実は菅原明朗とは再々婚で、初婚相手は来島清徳という。来島清徳は、智子が音楽学校で歌手を目指しているときに英語を教わっていた帝大生だった。娘の路子(本名永井擴子)のインタビュー記事が残されている。

http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/378_3.html

 

この来島清徳の曽祖父来島信親の姉竹子が、来島又兵衛の妻だった。又兵衛は入り婿になる。

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つまり、永井路子の高祖父の姉が、来島又兵衛妻で、路子は又兵衛と縁者になる。 実父・来島清徳は、昭和3年(1928)7月31日に33歳で亡くなる。路子が3歳の時になる。

しかしここに不思議なことがある。 来島家14代当主来島毅(清徳の末弟)が残した系図があるが、清徳は早世した男子二人を除くと路子のインタビュー通り次男になるが、路子(本名擴子)は三男剛の娘だという。剛も昭和6年(1931)2月21日に若く32歳で亡くなっている。このとき路子は5歳。 永井智子が路子を産んだときに複雑な事情があったようで、路子は永井家の養女になっているのだが、いずれにしろ、路子が来島又兵衛の縁者であることに変わりはない。 ということは、永井路子は僕と遠縁になるということなのだ。

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   永井路子作品をもとにした「草燃える」に出演の岩下志摩 (掲載写真はすべてSNSより拝借)

 

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鳥羽伏見の戦いでの東軍戦死者の回向

 
 
2/4、妙教寺による鳥羽伏見の戦いでの東軍戦死者の回向に行ってきました。前回の参加が2020年なので3年ぶりになります。

千両松に行く前に淀駅近くの光明寺の埋骨地をお参り



先代のご住職の跡をついだご子息のご住職と二人で、激戦のあった千両松と愛宕茶屋の2カ所で回向をしてきました。

愛宕茶屋にて

千両松にて
淀の町は久し振りですが、地元のスーパーマーケットや史跡巡りの時によくトイレを利用したコンビニは姿を消していました。淀駅前の小さな商店街もシャッターを下ろしている店が多くなりました。競馬場はありますが寂しい限りです。
 友人でもある妙教寺の先代ご住職は前回参加した2020年の10月に亡くなられました。その年3月に見つかった肺がんを抗がん剤で治療し完治寸前まで来たのですが、抗がん剤の副作用で体力が衰え永眠されました。頑健な体の持ち主でしたのでビックリしました。
ご住職とは僕が退職して幕末を調べだしてからの付き合いで、回向には8年前から参加していました。また、鳥羽伏見の戦いにも造詣が深くよく一緒に議論したこと、また京都や伏見の史跡巡りでは有名な妙教寺の砲弾による柱の貫通痕を拝見させ頂いたことが懐かしく思い出されます。
東軍慰霊祭は戊辰戦争が始まった京都では関係のお寺で回向が行われています。その一つが妙教寺で、また同じように南禅寺金地院でも4月に鳥羽伏見戦死者の東軍慰霊祭が行われます。
もちろん戦死者の中には会津藩新選組もいます。
会津藩士卒については、京都会津会による黒谷会津墓地のある西雲院での法要が有名ですが、この妙教寺や金地院にて会津藩士卒の回向をしているのを知っている方はほとんどいません。
毎年6月に行われる黒谷での法要のあとの直会のために会津などから日本酒が届けられますが、先代のご住職はお酒が好きな方でしたので、直会で余ったお酒を抱えて、会津藩士卒の回向をされているご住職にお礼かたがた届けていました。これもこれからはできなくなったことが残念でなりません。

妙教寺

おまけ

新選組井上源三郎の首を埋めたと判明した場所

妙教寺による東軍戦死者の回向

明日2/4は、淀・妙教寺にて慶應4年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いで倒れた東軍将兵の慰霊祭がある。これまで御住職は何代も替わられたが、戊辰戦争後今日まで連綿と東軍戦死者の回向を続けてこられた。
回向は、激戦が行われた宇治川(淀川)堤の千両松の八番楳木と、桂川沿いの愛宕茶屋の2カ所で読経が行われた後、妙教寺の本堂にて参加者が集まり行われてきたのだが、コロナ禍になり、ここ3年は八番楳木と愛宕茶屋での読経の後の本堂での慰霊はご住職など極めて少数で行われるようになってしまった。
しかもまことに残念なことに、コロナ禍の最中の2020年10月31日に友人でもあったご住職が亡くなられ、昨年は3回忌が営まれた。
ただその後は御子息がご住職を継がれ、2/4の東軍慰霊祭を主催しておられる。
コロナ禍の中参列する人は少なくはなってきたが、明日は出かけてきたいと思っている。
以下に妙教寺と、ある年の回向の様子を紹介いたします。


     妙教寺近辺の古地図 上が北

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淀は、京都と大阪の間にあり、桂川宇治川(淀川)が合流する戦略的に重要な場所だった。 宇治川(淀川)に架かるのが淀小橋。川は右から左(東から西)へ流れる。伏見から淀川堤を下ってくると、この淀小橋を渡り、淀城、大坂方面に通じる。

淀川右岸に松らしきものが生えている辺りが、東軍西軍の激戦地となった千両松のあった場所。 また、鳥羽から桂川沿いに鳥羽街道を下ると、同じく、淀小橋に至る。 絵図の上端の桂川が大きく曲がる手前が、愛宕茶屋があった辺りで、激戦地であった。

妙教寺は、この淀小橋と、鳥羽街道が大きく曲がる場所との間にある。

淀池上町からみた淀川と淀小橋、川向こうに納所町の人家が見える

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納所町側に建つ石碑 元淀川があった辺りはすべて埋め立てられている。

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千両松 淀川堤にあり、東軍西軍の激戦地であった。

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千両松のあった八番楳木に建つ「戊辰役東軍戦死者埋骨地」

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脇には競馬関係者が建てた碑があり、 そこには「慶応四年戊辰正月 伏見鳥羽の戦に敗れここ淀堤千両松に布陣し薩摩長州の西軍と激戦を交し、悲命に斃れた会津桑名の藩士及び新選組並びに京都所司代見廻組の隊士の霊に捧ぐ」とある。 この埋骨地碑の前で、妙教寺住職が代々毎年2月4日に法要を営まれてきた。 この時は参列者が多く、京都会津会から6名、遠路東京から新選組関係者9名が参列された。

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ついで、愛宕茶屋の「戊辰役東軍戦死者埋骨地」に向かう。

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慶応4年(1868)1月5日東軍と西軍との激戦の地。 鳥羽街道愛宕茶屋があった場所に石碑が建てられた。ここには、35名の東軍戦死者が埋葬されている。 この埋骨地碑の前でも、妙教寺住職が代々毎年2月4日に法要を営まれてきた。 愛宕茶屋南の堤防上にあった「戊辰役戦場址」と書かれた石標は横大路富ノ森の納所会館に移されている。 最後に、妙教寺に向かう。

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境内に建つ「戊辰之役東軍戦死者之碑」

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蝋梅がきれいに咲き始めていた。 石碑は、子爵榎本武揚書で、明治40年に京都十七日会により建立された。 側面に、「戦死者埋骨地三所一在下鳥羽村悲願寺墓地一納所村愛宕茶屋堤防-八番楳木」とある。

本堂でも厳かに法要が営まれた。

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予定がすべて滞りなく終了した後、ご住職により、被弾の跡と墓地を案内いただいた。
本堂外側の被弾の跡 ( ガラス板がはめられている)
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妙教寺の南側からの砲撃なので、 淀小橋から鳥羽伏見街道上の薩長軍に向けて会津藩白井五郎太夫隊が撃った大砲の着弾と思われる。

本堂の内側の被弾の跡  弾は柱を貫通したが、中心ではなく、若干横に逸れている。

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砲弾はそのあと勢いが弱くなり、板塀(白くなっている箇所)に当たり、そこで止まった。 不発弾のため被害は最小限に抑えられた。

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その時の砲弾。左はレプリカ

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妙教寺の本堂背後に墓地があるが、 中には、薩長軍の砲弾が当たった跡が残る墓石もある。 砲弾跡は、墓石の北側にあるので、鳥羽伏見街道から淀小橋方面に放ったことから、薩長軍の砲弾と知れる。

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墓地には、留守を預かっていた城に数人の幕府軍を入場させた責任を取り自刃した淀藩家老・田邊権太夫の墓もある。側面に、慶応戊辰四年正月六日と刻まれている。

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このときも真冬ではあるが割合暖かく、外で慰霊を行うには気持ちの良い日でした。 ご住職、参列された方々と、また来年お会いしましょうと言って、お別れしました。

 

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寺田屋遭難と初代伏見町長・江崎権兵衛

坂本龍馬を顕彰した江崎権兵衛は、伏見の事業家であり初代伏見町長を勤めた人物だが、その履歴を調べてみた。

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弘化元年7月23日、先代江崎権兵衛の次男として、字家書に生まれる。幼名は源三郎。

初代は江州坂本在仰木村出身で、330年前に伏見両替町に来住し、大工であったが、のち阿波橋東詰において近江屋の屋号で材木業を営んだ。

祖父の代に、盛業をきわめ、使用人は200人を超えた。

父権兵衛のとき西浜(字家書)に移転し、禁裏および紀州ほか数藩の御用商人となり、上賀茂下鴨神社石清水八幡宮春日神社・大宮御所などを造営した。母モトは京都の若山清兵衛の女。

明治元年    兄房丸が少年時代出家していたので、明治元年父の死去により家督を継ぎ、権兵衛を襲名した。父の業を継承するとともに酒造業を創め、貨殖に意をもちいて大いに産をなした。

明治3年9月、 <「庶民の称氏許可令」により、「近江屋権兵衛」を「江崎権兵衛」に改名か?><あるいは先代江崎権兵衛とあるので、明治初年に父の代で改名か?>

明治4年3月、 家業のかたわら、明治4年3月伏見第九番組の副年寄となる。

明治5年  、伏見十一区の副区長に就任、明治6年6月までその任にあった。

明治12年3月、京都府会の開設にあたり推されて議員となる。

明治13年3月、京都府伏見区選出、同年7月退任

明治16年4月、伏見倉庫(株)設立(米穀の集散地としての伏見に)、社長

明治17年3月、京都府伏見区補欠、19年1月退任

明治20年5月、淀川汽船(株)設立、社長

明治21年2月、伏見銀行設立、副頭取(のち、頭取、監査役、取締役(死亡退職まで)

明治22年4月、町村制の施行にあたり伏見町議員(2級)に挙げられる

明治22年5月4日、初代伏見町長、同年11月7日退任

明治23年5月、京都府会補欠、25年2月退任

明治24年 、 京都商業会議所設立発起人(伏見の代表者として)、会員に選出

明治26年3月、京都商業会議所、会員再選、理事

明治26年4月、伏見現米取引所設立、代表

 

明治26年5月27日、南浜町262番地の地所購入

明治26年12月1日、村上町370番地の地所購入

明治27年5月  、 南浜町262番地に「薩藩九烈士遺蹟表」が建立される(33回忌法要)

明治27年6月1日 、 南浜町263番地、車町282番地の地所購入

明治27年11月26日、車町281番地の地所購入

 

明治28年3月 、伏見商業会議所設立にあたり副頭取に押され、のち頭取(没年まで在職)

明治31年3月 、第5回総選挙に当選、同年6月解散になるまで国政にも参与

明治31年9月 、京都府農工銀行設立委員に任命され、設立から死亡退職するまで取締役

明治34年6月 、伏見現米取引所の解散後、伏見米穀市場を創設、代表

 

明治38年5月1日、南浜町263番地、車町281番地・282番地を、寺田伊助に売却

 

大正3年3月21日 肺炎のため死去、享年71歳

 

 

江崎権兵衛は、龍馬と三吉慎蔵が伏見奉行所の捕吏と戦った寺田屋があった地所と、両人が逃走の途中で一時的に隠れた材木納屋が含まれていた地所を、明治26年から27年にかけて取得している。

何故買い取ったのか、その理由を調べている。

 

村上町の地所を除く4つの地所は南浜町と車町であり、これらの地所は皆つながっている。

南浜町の通りからから車町の通りまでの間にあって、京都特有の細長い敷地となっている。

画像

 

明治27年5月に「薩藩九烈士」の33回忌法要があって、南浜町262番地に「薩藩九烈士遺蹟表」も建立される。

南浜町262番地は、明らかに法要と遺蹟表の建立のために事前に買い取ったと思われる。

しかし、他の地所を何のために続けて買い取っていったのかその理由が明確ではない。

 

寺田屋の敷地はもともとはこの4つの番地の地所にあり、江崎権兵衛はその全体を順次買い取っていったのではないかとも想像はできる。

明治26年5月27日  南浜町262番地の地所購入(大阪市の増岡重太郎から)

明治27年6月1日 南浜町263番地、車町282番地の地所購入(ともに銭谷松三郎から)

明治27年11月26日 車町281番地の地所購入(野村興右衛門から)

そして、明治38年に寺田伊助に地所を売却するまでの12年間、これらの地所と建物がどのように利用されていたのか、よくは分からない。

 

村上町の地所は、もともと濠川の向かいの過書も含めこの辺りは材木の集積地であり、材木商でもあった江崎権兵衛は、ここを材木置き場として利用されていたのかも知れない。

明治26年12月1日、村上町370番地(材木納屋の在った場所)の地所購入(江崎三郎兵衛から)

画像

 

江崎権兵衛が取得した地所は、村上町には他に地所がふたつあるが、

寺田屋と材木納屋の在った地所を入手したのは何か理由があるはずだが、今は明確ではない。

何らかの思惑があったと思うのだが、この件はまだまだ調査が必要だと思っている。

 

参考: 「京都府議会歴代議員録」

 

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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です

 

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