『 雨窓紀聞 』と『 麥叢録 』との関係について

先日、ヤフーオークションに『雨窓紀聞 下』が出品されたのをfacebookの投稿で知った。 確認すると、商品説明は以下の通り、 [題名] 雨窓紀聞 下、[著者] 竹陰穏士(小杉雅之進) 咸臨丸蒸気方 江差奉行並、 [発行所・発行年] 北畠茂兵衛 明治6年、 [仕様] 木版本 本の大きさたて22cm×よこ15cm 総二十丁 [状態] 少汚れ・少落書き・少イタミあり

商品画像を確認したが、後世の写本ではなく、出版されてすぐに絶板になった『雨窓紀聞 下』の本物に間違いはない。 『雨窓紀聞』上下二冊が明治6年3月に青藜閣より出版されたあと、翌明治7年7月に『麥叢録』乾坤二冊が小雅堂から出版された。この経緯は、小杉雅三(雅之進の改名)が『麥叢録』で大まかには以下のように述べている。          『雨窓紀聞』

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         『麥叢録』

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 明治2年に津軽弘前に幽閉されていた時に、北海戦闘の顛末を見聞したまま記述し、『麥叢録』と題して、後に親族や知己のため小冊子に纏めた。もとより出版するつもりなどは考えてもいなかった。 ところが、明治6年の夏、病床にて北海戦の事蹟を記録した『雨窓紀聞』を新聞で見た。早速取り寄せてみると、自分が編纂した『麥叢録』の題名を替えて出版されており、しかも序跋には小杉の名までみえる。 調べてみると、果たして某氏の為せるわざであったので、已むを得ず公の裁断をもって絶板にして貰った。 私録にしておく積りであったが、友人たちの勧めもあり、一旦世に出たことでもあり、正式に出版することにした。出版にあたっては若干見直し校正を加えた、 とある。

従来より、この両書についての僕の関心事は、雅之進に黙って『雨窓紀聞』として出版したのは誰なのか、そして雅之進が正式に出版した『麥叢録』との関係はどうなのか、ということ。つまり両書の成立にまつわる真相を究明したいこと。

雅之進は、『雨窓紀聞』を持込んだ者は某氏としか言っておらず、自分との関係を述べていない。 親族や知己のため小冊子に纏めたとあり、この冊子の写本が持ち込まれたことになるが、親族とは、雅之進の兄・直吉の小杉一家、養子にした辰三の実家・細谷十太夫、姉の嫁ぎ先の甥・河島由之、母親の楢林家くらいしか思い浮かばない。しかし親族が勝手に出版したとはとても思えないので、知己のうち箱館戦争に縁のある誰かではないかと思えてくる。 この件はこれからの調査になる。

いずれにしろ、『雨窓紀聞』の和綴じ本の現物は見たことがなく、手にしてみれば新たな事実が判明するかもしれないと思いオークションに出品された原本に関心を持った。すぐにオークションに参加しようと思ったのだが、残念ながら理由は不明だがアクセスを拒否され参加できない。 出品されたのは、『雨窓紀聞』上下二冊のうちの一冊「下」だけなので、すぐに諦めてしまった。 この『雨窓紀聞 下』だけでは、両書全体の成立過程はまだ明確にはできないと判断したからだった。 本来は上下二冊を同時に入手したいのだが、 一冊であれば出品の「下」よりも、むしろ「上」の方が情報量も多く良かったからでもある。

両書の中身については、いずれも函館市中央図書館デジタル資料館や国会図書館デジタルライブラリなど確認できるが、以前から次のような相似が気になっていた。 『雨窓紀聞 上』と『麥叢録 乾』との本文は、原稿用紙形式でなって居るのだが、イントロの部分と最後の頁の2行こそ違え、3枚目の5行目から22枚目の最後直前まで、一部の字を除けば全く同じなのだ。『雨窓紀聞 下』と『麥叢録 坤』とは、1枚目の書名と著者名の2行と、本文最後の30枚目の後書き相当部分が異なるのみで本文は同じである。 同じという意味を厳密にいうと次のようになる。

①どちらも、400字詰め原稿用紙(20字10行 x 2)の形を取っている。

②原稿用紙には、中央部分に、各々、「雨窓紀聞」、「麥叢録」とあり、各々専用の原稿用紙に記述した体裁を取っている。より正確には、以下の通り。 『雨窓紀聞 上』は「雨窓紀聞 巻上」、『雨窓紀聞 下』は「雨窓紀聞 巻下」 『麥叢録 乾』は「麥叢録 巻上」、『麥叢録 坤』は「麥叢録 巻下」

③両書を比較して、本文の字が全く同じ筆跡である原稿用紙は、「原稿用紙の名称」が異なるのみで、原稿用紙の周りの線(線の濃淡・線の欠け箇所)も全く同じである。 これは、全原稿用紙の52枚のうち46枚にも及ぶ。

④ ③の中でも一部の語句の異なる(『麥叢録』で改訂している)原稿用紙は数枚あるが、原稿用紙の特徴(線の濃淡、線の欠け)は全く同じである。

以上の事から、次の事が分る。 ①原稿用紙の体裁を取っている本文について、『雨窓紀聞』で使用した原板を、原稿用紙名を入れ替えて、『麥叢録』でもそのまま使用していること。 従って、出版社は違っても、『雨窓紀聞』の原板を譲られたか、同じ印刷所で『麥叢録』を印刷したと考えることができる。 ②特に本文のイントロ部分は、原稿用紙3枚目4行までの41行は新規に文章を作成し直しているが、3枚目の4行目途中からは、『雨窓紀聞』と同じである。 上が『雨窓紀聞』、下が『麥叢録、 原稿用紙の線も同じであることに留意

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従って雅之進は、『麥叢録』の出版に当たって、新規に板を起こすのではなく、『雨窓紀聞』と同じ原板を使うことを前提に文章を起こし改訂していることが分る。 原稿用紙3枚目の最後の2行だけ異なる、 原稿紙の周りの線も薄れてはいるが、同じ 

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原稿用紙4枚目、 先頭行のみ文章が異なる、周りの線も同じ

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全く同じ原稿用紙の体裁、 「原稿用紙の名前」だけ異なる

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このことから、『雨窓紀聞』の原稿(雅之進の纏めた冊子の写本)とそれを持ち込んだ人物、出版した青藜閣、『雨窓紀聞』の原版活用を考えた人、『麥叢録』を改訂した雅之進、『麥叢録』を出版した人などなど、各々のつながりが想像できてなかなか面白い。

『雨窓紀聞』には、青藜閣の北畠茂兵衛と北澤伊八の名がある。北畠茂兵衛は屋号が須原屋茂兵衛で9代目になる。北澤伊八は、須原屋茂兵衛から暖簾分けされた須原屋伊八のこと。 まだ確認はしていないが、 『雨窓紀聞』の出版人のひとり北畠茂兵衛と同じ名が、『麥叢録』を出版した書店・小雅堂にもあらしい。そうであれば原板の再利用は、出版費用の削減の面からも、出版時間の迅速化からも、大きなメリットがあったというべきだろう。

ところで、 『麥叢録』の出版社「小雅堂」は江戸時代からの古くからの店で、もちろん「小杉雅三」からと採った名前ではないが、たまたまにしては出来過ぎのような気がしている。

 

 

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