妙教寺による東軍戦死者の回向

明日2/4は、淀・妙教寺にて慶應4年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いで倒れた東軍将兵の慰霊祭がある。これまで御住職は何代も替わられたが、戊辰戦争後今日まで連綿と東軍戦死者の回向を続けてこられた。
回向は、激戦が行われた宇治川(淀川)堤の千両松の八番楳木と、桂川沿いの愛宕茶屋の2カ所で読経が行われた後、妙教寺の本堂にて参加者が集まり行われてきたのだが、コロナ禍になり、ここ3年は八番楳木と愛宕茶屋での読経の後の本堂での慰霊はご住職など極めて少数で行われるようになってしまった。
しかもまことに残念なことに、コロナ禍の最中の2020年10月31日に友人でもあったご住職が亡くなられ、昨年は3回忌が営まれた。
ただその後は御子息がご住職を継がれ、2/4の東軍慰霊祭を主催しておられる。
コロナ禍の中参列する人は少なくはなってきたが、明日は出かけてきたいと思っている。
以下に妙教寺と、ある年の回向の様子を紹介いたします。


     妙教寺近辺の古地図 上が北

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淀は、京都と大阪の間にあり、桂川宇治川(淀川)が合流する戦略的に重要な場所だった。 宇治川(淀川)に架かるのが淀小橋。川は右から左(東から西)へ流れる。伏見から淀川堤を下ってくると、この淀小橋を渡り、淀城、大坂方面に通じる。

淀川右岸に松らしきものが生えている辺りが、東軍西軍の激戦地となった千両松のあった場所。 また、鳥羽から桂川沿いに鳥羽街道を下ると、同じく、淀小橋に至る。 絵図の上端の桂川が大きく曲がる手前が、愛宕茶屋があった辺りで、激戦地であった。

妙教寺は、この淀小橋と、鳥羽街道が大きく曲がる場所との間にある。

淀池上町からみた淀川と淀小橋、川向こうに納所町の人家が見える

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納所町側に建つ石碑 元淀川があった辺りはすべて埋め立てられている。

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千両松 淀川堤にあり、東軍西軍の激戦地であった。

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千両松のあった八番楳木に建つ「戊辰役東軍戦死者埋骨地」

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脇には競馬関係者が建てた碑があり、 そこには「慶応四年戊辰正月 伏見鳥羽の戦に敗れここ淀堤千両松に布陣し薩摩長州の西軍と激戦を交し、悲命に斃れた会津桑名の藩士及び新選組並びに京都所司代見廻組の隊士の霊に捧ぐ」とある。 この埋骨地碑の前で、妙教寺住職が代々毎年2月4日に法要を営まれてきた。 この時は参列者が多く、京都会津会から6名、遠路東京から新選組関係者9名が参列された。

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ついで、愛宕茶屋の「戊辰役東軍戦死者埋骨地」に向かう。

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慶応4年(1868)1月5日東軍と西軍との激戦の地。 鳥羽街道愛宕茶屋があった場所に石碑が建てられた。ここには、35名の東軍戦死者が埋葬されている。 この埋骨地碑の前でも、妙教寺住職が代々毎年2月4日に法要を営まれてきた。 愛宕茶屋南の堤防上にあった「戊辰役戦場址」と書かれた石標は横大路富ノ森の納所会館に移されている。 最後に、妙教寺に向かう。

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境内に建つ「戊辰之役東軍戦死者之碑」

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蝋梅がきれいに咲き始めていた。 石碑は、子爵榎本武揚書で、明治40年に京都十七日会により建立された。 側面に、「戦死者埋骨地三所一在下鳥羽村悲願寺墓地一納所村愛宕茶屋堤防-八番楳木」とある。

本堂でも厳かに法要が営まれた。

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予定がすべて滞りなく終了した後、ご住職により、被弾の跡と墓地を案内いただいた。
本堂外側の被弾の跡 ( ガラス板がはめられている)
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妙教寺の南側からの砲撃なので、 淀小橋から鳥羽伏見街道上の薩長軍に向けて会津藩白井五郎太夫隊が撃った大砲の着弾と思われる。

本堂の内側の被弾の跡  弾は柱を貫通したが、中心ではなく、若干横に逸れている。

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砲弾はそのあと勢いが弱くなり、板塀(白くなっている箇所)に当たり、そこで止まった。 不発弾のため被害は最小限に抑えられた。

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その時の砲弾。左はレプリカ

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妙教寺の本堂背後に墓地があるが、 中には、薩長軍の砲弾が当たった跡が残る墓石もある。 砲弾跡は、墓石の北側にあるので、鳥羽伏見街道から淀小橋方面に放ったことから、薩長軍の砲弾と知れる。

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墓地には、留守を預かっていた城に数人の幕府軍を入場させた責任を取り自刃した淀藩家老・田邊権太夫の墓もある。側面に、慶応戊辰四年正月六日と刻まれている。

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このときも真冬ではあるが割合暖かく、外で慰霊を行うには気持ちの良い日でした。 ご住職、参列された方々と、また来年お会いしましょうと言って、お別れしました。

 

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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です