お龍の馳せ報知の姿は?

伏見寺田屋にて坂本龍馬と三吉慎蔵が幕府の捕吏に襲われたときに、お龍が危機を二人に知らせた。

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     画像は、2018/9/2放送 「西郷どん」より

 

このときの風呂場からの馳せ報知のお龍の姿を直接知っているのは、お龍本人、一緒に風呂にいた殿井力子、目撃した龍馬・慎蔵の計4名と、数人の幕吏に限られる。

 

⑴ お龍

①『千里駒後日譚』

明治32年11月5日付土陽新聞 川田雪山

「風呂の外から私の肩先へ槍を突出ましたから、私は片手で槍を捕え、態と二階へ聞こえる様な大声で、女が風呂へ入って居るのに槍で突くなんか誰だ、誰だと云ふと、静かにせい騒ぐと殺すぞと云ふから、お前さん等に殺される私ぢやないと庭に下りて濡れ肌に袷を一枚ひっかけ、帯をする間もないから跣足(はだし)で駆け出すと、陣笠を被って槍を持った男が、矢庭に私の胸倉を取て・・」

②『続反魂香』明治32年11月15日 安岡秀峰

「若し阪本に知れて御覧なさい、用心をするぢやありませんか、と悠々と衣服をつけて、・・・お良は今は一所懸命彼奴等が行かぬ其内に早く知らせやうと、帯引き締むる間も遅しと、兼て造へて置いた秘密の階子から、二階へ飛び上るが早いか、四人の居る居間へ転げ込むで、たゝ大変で御坐います、今夜来ました、・・・」

③『阪本龍馬の未亡人』昭和6年 安岡重雄

「あの時、私は、風呂桶の中につかって居ました。これは大変だと思ったから、急いで風呂を飛び出したが、全く、着物を引掛けて居る間も無かったのです。実際全裸で、恥も外聞も考えては居られない。夢中で裏梯子から駆け上がって、敵が来たと知らせました。」

<筆者註: お龍は明治39年(1906)1月15日に死去しているが、存命中は書けなかったのか、安岡はお龍が死去してから記事の内容を全裸に変えている>

 

⑵ 殿井力子

〇『勤王後家寺田屋 おとせ(九)殿井力子談』

明治44年11月1日やまと新聞

「お春さんと私は湯に浴(はい)って上ると表を百人許りの捕吏が取囲いて母を呼び出しました。母は何心なく戸外へ出ると・・・・。阪本さんは二階から下りる所を梯子の下に匿れて居た捕吏に一太刀手の甲を切られたが、大したことなく裏の物置を切抜け三好さんと共に逃げられた。お春さんも続いて男の浴衣に男の帯を締めて阪本さんと共に逃げました。」

(なお、新聞にはおとせの長女陸軍大佐殿井隆興氏の令閨。寺田屋騒動の時14歳とある。)

<筆者註: 力子は、お龍が逃げるときに男の浴衣を着たといい、着替えたとは言っていない>

 

⑶ 龍馬

〇慶応2年12月4日阪本権平、一同あて書簡

「一人の連れ三吉慎蔵と話して風呂より揚り、最早寝んと致候処に、ふしぎなるか哉(此時二階居申候)人の足音のしのびしのびに二階下をあるくと思ひしに、六尺棒の音からからと聞こゆ、おり柄兼而御聞に入し婦人、名ハ龍今妻也。勝手より馳せ来り云様、御用心被成べし不謀敵のおそひ来りしなり。」

<筆者註: お龍の姿には言及せず>

 

⑷ 慎蔵

①『三吉慎蔵日記』

「此上ハ王道回復ト賀シ一酌ヲ催ス可キ用意ヲ為シ、懇談終リ夜半八時頃ニ至り、坂本氏妾二階下ヨリ走リ上り、店口ヨリ捕縛之者入込ムト告ク」

②『三吉慎蔵日記抄録』

「サレバ王道回復ニ到ルベシと一酌ヲ催ハス用意ヲナシ、懇談終リ夜半八ツ時頃ニ至り、坂本ノ妾二階下ヨリ走リ上り、店口ヨリ捕縛吏入込ムト告グ」

<筆者註: ①②ともお龍の姿には言及せず>

 

ところで、慎蔵も編纂にタッチした長府毛利家の正史『毛利家乗』を見ると、

③『毛利家乗』下関市立歴史博物館所蔵版 明治20年頃発行

「廿三日藩士三吉慎蔵ヲ遣リテ京師ノ状ヲ細作セシム伏水ノ旅舎ニ闘フ

附記 土佐ノ人坂本龍馬来テ赤間關ニ寓ス慎蔵之ニ従テ學フ是夜良馬ト倶ニ伏水ノ旅舎ニ投ス数人アリ窃カニ旅舎ヲ圍ム二人楼上ニ在テ之ヲ覚ラス良馬ノ妾浴室ニ在リ變ヲ視テ裸躰来リ告ク圍兵従フテ上ル・・・・」

④『毛利家乗抄録』 三吉家蔵

慶應二年正月廿三日藩士三吉慎蔵伏水ノ旅舎ニ闘フ

是ヨリ先キ命シテ京攝間ノ情狀ヲ細作セシムルナリ

附記 土佐ノ人坂本良馬曾テ赤馬關ニ來寓シ慎蔵之ト交ル是夜良馬ト倶ニ伏水ノ旅舎ニ投ス寇(あだ)アリ暗二舎ヲ圍ム二人樓上ニ在テ之ヲ覺ラス良馬ノ妾會(タマタ)マ浴室ニ在リ變ヲ見テ裸體馳セ報ス數人從ヒ登ル・・・・」 (大正15年発行『坂本龍馬関係文書』にも収録)

<筆者註: ③④ともお龍の姿を裸体としている。捕吏数人がお龍の後から階段を登ってきたが奉行所側には姿については記録がない>

 

==>結論:『毛利家乗』などでは、附記の中にお龍の姿を描いている。明治20年版に記述があり、当時一番早い言及でもある。これは三吉慎蔵が述べたとしか思えない。

 

『毛利家乗』の編纂経過については以下の通り。

『毛利家乗』の編纂は大きく以下の四つの段階があり、内容は追加加筆されていく。

〇明治16年秋  御家記稿本 (現在行方不明)

〇明治20年頃  下関市立歴史博物館所蔵版

〇明治23年頃  (三吉家蔵『毛利家乗抄録』にも収録、坂本龍馬関係文書もこの版を収録)

〇大正後半~昭和初め (最終版)

 

なお、大正元年の『維新土佐勤王史』では、

「偶まお龍は湯殿に浴し居たるが、俄に街上の騒しきに、戸の隙より透し見れば、闇に閃く槍の穂先に、スハ一大事と、衣装を纏ふ暇もなく、雪の肌もあらはにて、裏梯子を走り上りさま、表の方に指さして、危急の迫るを告げ知らせぬ。」とあるが、

坂崎紫瀾は『維新土佐勤王史』をまとめるにあたり、資料がなく不明な箇所は想像の翼を広げている(坂崎に限らず、当時では比較的よくある)。

 

 

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龍馬が隠れた材木納屋

龍馬と三吉慎蔵が幕府の捕吏と寺田屋で戦い隙を見て逃走した途次、隠れた材木納屋がある。

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ただし鳥羽伏見の戦いで焼失しているので、写真の材木納屋は当時のものではない。

この材木小屋について、伏見奉行所の報告には、 「村上町財木渡世 近江屋三郎兵衛財木納屋へ 龍馬手疵を受候侭立入」とある。 材木商・近江屋三郎兵衛のものと確認されているこの納屋は、今現在の村上町370番地の北川本家ビン工場を含む場所にあった。

で、この場所は、幕末頃の絵図では大名屋敷の敷地となっている。 大坂の蔵屋敷でもそうだが、藩は敷地の一角を出入りの商人に貸し与えることがある。この材木納屋もおそらく藩から貸し与えられた土地で、貯木場として使われていたのであろう。 ではこの敷地の大名は何家なのか、これがよくわからない。 『伏見町誌』の「維新前管轄図」では、この納屋のあった場所辺りを、地図上では因州鳥取屋敷と明示している。

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小さな地図では細かな地所の名称は注記していないこともあるので、この敷地がすべて鳥取藩邸なのかは分からない。ただ今現在、材木納屋があった辺りの大手橋筋に面した北川本家の酒販売所には、鳥取歴史博物館から提供された鳥取藩伏見屋敷の絵図のコピーを掲示し、もと鳥取藩の敷地跡としている。

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絵図では、北は紀州藩邸、東は村上町通り、西は川筋(濠川)に接し、南は町屋と書かれている。 しかし、江戸末期の地図、慶応4年の『京町絵図細見大成』では、「藝州」とある。しかも、三筋北の肥後町には「因州」とあり鳥取藩の屋敷は別の場所を示している。

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以上のように、材木納屋の在った場所を含む土地の大名家に複数説があるので、どれが正しいのか調べてみたい。

鳥取県立博物館に確認すると、京都・伏見の藩政期の記録は殆どないという。ただ、幕末期の鳥取藩の場所は現在の北側本家ビン工場の少し南側と考えていたが、当館としても関心があるので、とりあえず、藩と商人との取引の記録の有無を調べたいとのお話。

広島市中央図書館で確認すると、京都での藩政期の記録は原爆で焼失してしまったという。ただ、レファレンスを受けたので時間はかかるが確認はしたいとおっしゃる。

関が原以後から幕末以前までは藩邸の地所替えはあまりないとは思うのだが、薩摩藩邸を例にするまでもなく、政局が京都に移る幕末は藩邸の移動が多そうだ。 ただ芸州広島藩については、広島県史の年表で確認すると、伏見藩邸の記述は2か所あり、江戸中期に屋敷替えをしていると思われる。

① 1633 寛永10 癸酉   9-27 広島藩,伏見阿波橋内新町に伏見藩邸を設ける〔玄徳公済美録4〕。

② 1716 享保1(6.22) 丙申②   7-13 広島藩,伏見京橋町屋敷を伏見藩邸にする〔事蹟緒鑑37〕。

享保元年7月13日に藩邸を伏見京橋町に構えているが、阿波橋内新町から屋敷替えし京橋に移転したと読むと、それ以後の年表には伏見藩邸の移転記述がないので、藩邸は江戸時代に一回、屋敷替えしたことになる。 ①の伏見阿波橋内新町は、村上町通と濠川との間なので、慶応4年の『京町絵図細見大成』に描かれた「芸州」になるのだろう。そして②の伏見京橋町は、『伏見町誌』に記述の「安芸屋敷」と思われる。

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この場合は、1716年以後に作成された『京町絵図細見大成』が代々慶応4年まで何種類あるか知らないが、「芸州」は伏見阿波橋内新町にあると記され、ずーと訂正されずに幕末まで至ることになってしまうのだが・・・・・。 ただ、正式の藩邸は京橋にあり、「芸州」屋敷はそのまま阿波橋にも残っているのであれば、屋敷としての注記は正しいとも思えるのだけれども・・・・。 この場合、鳥取藩伏見屋敷の絵図では、、阿波橋内新町には「町屋」と書かれている。

京都府立総合資料館が所蔵している天保年間に描かれた「城州伏見図」がある。ここには、伏見京橋町屋敷が描かれ、 鳥取藩伏見屋敷絵図と同じく、阿波橋内新町の芸州屋敷の在った場所は「南組町屋」とある。

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ところで、幕末を遡ると、いろいろな時代に描かれた古地図がある。 なかでも、大阪府立図書館蔵の『伏見往古図』は参考になる。慶長年間の古地図で、その後正徳4年(1714)に校正した地図だ。

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ここでは、下大手町通り(地図は上が東、下大手通りは真ん中縦の筋)の北側と南側に紀州藩邸(紀伊中納言紀州御屋敷)があり、さらに南側に因州藩邸(因幡少将)とある (「紀州御屋敷」と「因幡少将」を分けている線は絵図の折り目)。

正徳4年(1714)の』伏見往古図』と、昭和4年作成の『伏見町誌』には、村上町通りと濠川の間に「因州」とある。 「因幡少将」の南側に注記していない空白地があるが、阿波橋に近いのでこれが「芸州」のようだ。 慶応4年の『京町絵図細見大成』では、「因州」屋敷は肥後町にあるとするが、この場合も、「芸州」の北側の注記のない空白地は「因州」藩邸と注記されていないだけなのだろうか?・・・・・・・。

 

さて、ここからが本題

重要なのは、『京町絵図細見大成』に描かれている 「藝州」 の北側の注記のない空白の敷地。「因州」は肥後町に描かれているので、この空白地はこれは何だろうか。 実は、僕はこれが多くを物語っているような気がしている。 この空白地は、おそらく2つの部分から成り立っている。 『伏見往古図』では、下大手町通りの南側にも紀州藩の屋敷の一部があり、この場所は村上町でもある。幕末の時も、敷地はこの図と変わらなかったのではないかと考えている。 とすると、材木小屋のあった辺りは、紀州藩邸の在った場所となる。

あらためて、鳥取県立博物館の「鳥取藩屋敷絵図」を見ると、北側は道を挟まず「紀州藩御屋敷」と接し、東の村上町通りは北に延び「紀州藩御屋敷」の横を通っている。 従って、「鳥取藩屋敷絵図」の北側の「紀州藩御屋敷」は、大阪府立図書館蔵の『伏見往古図』に描かれた下大手町の南側の「紀州御屋敷」と同じと分る。

結局、下大手町通から南側は、 紀州藩 因州鳥取藩 芸州広島藩 (但し、享保元年に藩邸は京橋に移転) と並んでいたことになる。 従って、材木納屋があったのは紀州藩邸敷地内と結論してもよさそうだ。

初代伏見町長になった江崎権兵衛は、先祖は江州坂本の人で「近江屋」を屋号としていた。父の近江屋権兵衛は阿波橋東詰から西浜(字過書)に移転し、紀州ほか数藩の御用商人であったという。 上賀茂下鴨神社石清水八幡宮春日神社・大宮御所などを造営し使用人も多かった「近江屋」は、身内の「三郎兵衛」に「近江屋三郎兵衛」として暖簾分けしたのではないだろうか? 「近江屋三郎兵衛」も紀州藩の御用商人として、紀州藩からこの敷地を借り受け、材木貯蓄場としていたと考えることは不思議ではない。 なお、この場所は、後年の明治26年に、江崎三郎兵衛から江崎権兵衛に譲渡されている。

付け加えると、今の大手町筋は、大手橋が架けかえられたときに南側に倍ほど道幅が拡張されている。元紀州藩邸の北側が削られ一部が道路になっている。従って、材木納屋のあった辺りもその北側が道路になっていると考えた方がいいのだろう。 まだまだ史料により検証が必要とは思うが、 ここでは一旦、龍馬か隠れた材木納屋は紀州藩の敷地内にあったと結論しておく。

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寺田屋からの逃走ルート5 薩摩藩伏見屋敷

以前京博にて、「大政奉還150年記念 鳥羽伏見の戦い」展を拝見した。 僕にとっては重要な史料が多いが、目的は、 ①幕末の伏見の地図 ②薩摩藩伏見屋敷の平面絵図 の確認。

展示場に入るとすぐ後ろから、宮川禎一上席研究員が立命大の刀女子2名を案内してやって来るのに出会い、展示品の解説を拝聴する機会に恵まれた。 展示品の数は30弱で少ないが、このうち京都城南宮の所蔵品が12を占める。ただ何故か、「薩摩藩伏見屋敷平面図」には城南宮所蔵と明記がない。

①伏見の地図は、 「瓦版 慶応四歳正月大火」 と、「戦跡実施調査記録」にみることができる。 「瓦版 慶応四歳正月大火」は、残念ながら紙面の大きさの限られた瓦版だけあって、やはり町や通りの描き方は大まかで、間違っているところも多い。おどろいたのは大手橋が描かれてもいる。

「戦跡実施調査記録」は、明治16年の調査記録だが、絵図はほぼ正しいようだ。 ただ伏見の戦いでの焼失範囲が一部おかしく、薩摩藩伏見屋敷が「瓦版 慶応四歳正月大火」では赤く塗られ焼失しているのに、白いままで焼けていないように描かれていたりする。

薩摩藩伏見屋敷の平面絵図は、 展示室の中央に置かれ、今回展示の目玉を表わしている。 絵図は、「伏見御屋鋪惣絵図」と書かれ、縦99センチ、横128.2センチの大きさで、「天明6(1786)年12月16日」 「薩州御作事奉行 黒岩庄右衛門 大工方 儀兵衛所持」と記され、担当した大工の図面で、建物の配置や間取りが詳細に描かれている。

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写真の図面は京都新聞より拝借しているが、地図にはマス目が刻まれてあり、屋敷の規模は南北99m、東西64mで敷地面積は4973㎡(約1,500坪)と推定されるらしい。 中央に、島津の殿さま一族や家老など高級武士が使用する大きな建物群があり、夫々廊下でつながっている。その東側に中間用の建物、留守居役の建物や家臣の長屋が配されている。 絵図の下(東側)の濠川側から見ると、まず中央に下板橋があり、その両側に揚場(船着き場)、馬屋などが描かれている。 揚場の番所を通って西に進むと、正面に横に長い長屋が道を遮り、この長屋の両端に門がある。南端に表門、北端に裏門がある。この横に長い長屋には飛び飛びにトイレが四つみえる。 この裏門と繋がって北側に建物があり、「御仮屋守居所」とよばれ、部屋が6つほどある。もちろんトイレもひとつ付いている。

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この絵図は、天明6(1786)年の改築か新築時の工事用図面とみられ、鳥羽伏見の戦いで慶応4年(1868)に焼失するまで建て替えなどの記録がないため、幕末当時の屋敷と同じと思われていた。

宮川禎一氏によると、「龍馬は揚場から裏門を通って運ばれ、屋敷の北東にある、管理者がいた御仮屋守居所の部屋の周辺に担ぎ込まれたのではないか。」、「当時、幕府側が龍馬が隠れてると断定し、引き渡せと迫ったが薩摩藩が拒否し、薩摩と幕府の亀裂が決定的になった事件の現場でもある」とのお話。

僕の関心事は、龍馬とお龍そして三吉慎蔵が七日間居た部屋なのだが、もちろんこれは史料がなく推測の域にはなる。 展示を拝見する前に、桐野作人氏から、 南北に長い長屋には、北から、北客屋、中客屋、南客屋が間に他の居室を挟んで飛び飛びに配置されており、そのどこかに龍馬夫妻と慎蔵がいたのではないかとのご教示をいただいていた。 実際に絵図を拝見すると、北客屋は中客屋、南客屋と比べて広く、それぞれトイレが隣室にある。 龍馬は一旦運び込まれたあと、客屋の広さから、北客屋は龍馬とお龍、中客屋辺りに三吉慎蔵がいたのではないかと勝手に推測していた。

しかしながら、絵図面を所蔵されている城南宮によると、実は絵図面が発見されてからしばらくして、新たなことが分った。 島津久光は、文久2年に藩兵約1,000名(700名とも)を伴って挙兵上京のおり錦小路藩邸に入ったが、政局の中心が京都に移る中、錦小路は手狭だった。 そこで、相国寺から5,805坪(約19,000平方メートル)の敷地を借り受け、新たに二本松藩邸を建築することになった。 そのとき、屋敷を早く建造するため、伏見屋敷を解体し移築している。 つまり、慶応2年の寺田屋襲撃を受けた際に、龍馬や慎蔵が逃げ込んだ伏見屋敷は、上記の絵図面とは違った姿になっていた。 慶応2年時点での伏見屋敷の新しい建物の造作は、今はさっぱりわかっていない。ただし、移築したのは殿様や家老が居る中央の大きな屋敷だけらしいので、留守居役の建物とともに、伏見屋敷を取り巻く一角の南北に長い長屋は残してあるはずなので、ここに龍馬・お龍・三吉慎蔵が匿われていたのは、今後の史料の修験を待つしかないが、間違いではないような気がしている。

なお、8/2付京都伏見新聞によると、 「大工方 儀兵衛」は、江戸期には伏見で宮大工を営んでいた家筋の「茨木屋儀兵衛」のことで、末裔は山本家。江戸後期に材木商、両替商や質商など事業を拡大。代々、御香宮神社の氏子総代を務めるなど、月桂冠の大倉家と並ぶ伏見の名門家として知られる。淀・妙教寺の本堂なども建造していた。

参考:写真は京都新聞から拝借

 

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寺田屋からの逃走ルート4

寺田屋事件での材木納屋から薩摩藩伏見屋敷までの逃走ルートを調べている。

動けない龍馬は材木納屋に隠れ、三吉慎蔵が単独で伏見屋敷を目指した。

 

ところで、慎蔵は伏見市中の地理に明るく、伏見屋敷の場所を正確に知っていたのだろうか。

 

伏見は、京と大坂との上り下りの淀川の起点に位置する交通の要衝であり、そのため東海道57次の江戸から数えて54番目の宿場町として栄え、東は京町通り、西は高瀬川、北は墨染、南は宇治川に接し、東西1km、南北4.5kmの広さのある人口2万4千人を抱えた大都市であった。

慎蔵にとっての伏見は、慶応2年1月の寺田屋事件までに、長府から江戸への往復で4度、長府から京都への往復で4度の、計8回通過している場所になる。

 

伏見通過は、時系列には以下の通り。

安政5年2月頃、江戸へ藩主参勤の御供として通過 (伏見宿泊は不明)

安政6年5月頃、江戸より帰国御供として通過 (宿泊不明)

③万延元年閏3月頃、江戸へ参勤御供の途次通過 (宿泊不明)

文久元年3月、帰国の途次伊勢神宮に藩主の代参をして通過 (宿泊不明)

文久3年2月21日、上京の途次通過 (宿泊はなし、宿泊は大徳寺

文久3年2月28日、帰国の途次、藩主の御供で騎馬にて通過(宿泊なし)

文久3年7月頃、攘夷の事につき京都へ用事の節通過 (宿泊なし)

文久3年8月18日、八・一八政変報知のため急ぎ帰国の節通過 (宿泊なし)

 

長府藩の京都藩邸は三条通下立売油小路にあったが、参勤交代では京都市街は通行禁止なので、

①③の江戸参勤交代の場合、大坂中之島長府藩邸から、東海道を登り、伏見宿を通って、伏見の墨染から髭茶屋追分の道路を抜け、大津宿に向かう。

②④の帰国の場合はその逆で、大津宿からは、髭茶屋追分を経由、伏見宿を経て大坂に向かう。

いずれの場合も、伏見で宿泊する場合は京橋近くの4軒の本陣、2軒の脇本陣のどれかを使用することになる。

 

⑤⑥⑦⑧の場合は参勤交代ではなく、目的地の京都市内には京都藩邸や大徳寺など宿泊場所があるため、伏見では宿泊していないはずである。

 

以上の事から、伏見での滞在があるとすればすべて参勤交代での滞在であり、あっても計4泊ほどになるが、

もともと長府藩の本国勤務の慎蔵は、在京勤番の藩士でもないため、伏見を通る街道は知っていても伏見市内の地理にそれほど明るいとは思えない。

 

逃走先の薩摩藩伏見屋敷の場所を、慎蔵は明確に知っていたのだろうか?

龍馬とともに上京したのも、長府藩の内命では

薩長連合の行方、②京都の時勢探索、③薩摩藩の内情探索を目的としており、本来、事件の翌日は京都の薩摩藩邸に入るつもりでいた。途中の伏見屋敷には用はない。

 

また、薩摩藩伏見屋敷は、東海道の街道から2町ほど外れているため、伏見屋敷の場所を正確に知っていたか否かは分からない。

 

ただ、今回の上京では薩摩藩士の身分であり、何事にも慎重な慎蔵は、寺田屋に滞在しているときに伏見屋敷の位置を確認していた可能性は残る。

 

但し後年の慎蔵からの聞き取り「三吉慎蔵時治氏談話ノ要」によれば、

「川水ニテ衣袴ノ血ヲ滌キ草鞋ヲ拾ッテ薩邸ニ赴ク方角ハ分ラズ誠ニ困却ヲ極メタリ漸ク薩邸ニ至リテ・・云々」とあり、材木場所からの正確な方向と場所は明確でなかったことが分かる。IMG_0012.JPGIMG_0018.JPG

 

寺田屋からの逃走の際は、奉行所の場所から遠く離れ、材木納屋までは伏見屋敷のある方向に逃げてきたのは間違いない。

ただ正確な伏見屋敷の場所を、動けない龍馬から聞いたとしても、せいぜい濠川上流の川沿いにあるとか、何筋ほど北にあるはずとか、あるいは伏見屋敷への東海道の最寄の目印といった程度ではないだろうか?

 

慎蔵は逃走の状況を日記抄録に以下のように記す。

「最早逃れ路もなく川岸には夫々出張手配の様子に付・・・・・・時既に暁なれは猶予むつかしと云う、(龍馬の)其言に従ひ直に川端にて染血を洗ひ草鞋を拾ふて旅人の容貌となし走出つ、其際最早市中の店頭に既に戸を開くものあるを以て、尚ほ心急きに二町余り行く、幸ひに商人体の者に逢ひ薩邸のある所を問ふに、是より先き一筋道にて三町余りなりと云ふ。即ち到る」

 

ここでのポイントは

①川岸には夫々出張手配の様子

②時既に暁なれは

③川端にて染血を洗ひ草鞋を拾ふて旅人の容貌となし

④最早市中の店頭も既に戸を開くものある

⑤心急きに二町余り行く、

⑥幸ひに商人体の者に逢ひ薩邸のある所を問ふに、是より先き一筋道にて三町余りなりと云ふ。即ち到る

 

①川岸には夫々出張手配の様子

材木納屋から窺い見た様子では、濠川の岸辺には捕吏が出張っており捕り方の手配がなされている。

したがって、濠川の河岸近辺は近寄らないはずだ。

 

②時既に暁なれ

襲撃のあった慶応2年1月24日(実際の襲撃は午前2時過ぎ)は西暦では1866年3月10日。

この季節は朝6時までには空が白んでいて、見つかり易いリスクも増えるが、町の様子が分かり、走りに強く極めて健脚の慎蔵には逃げやすいはずだ。

 

③川端にて染血を洗ひ草鞋を拾ふて旅人の容貌となし

尋常の旅人の姿に改めている。従って伏見宿早立ちの旅人として一人で街道を小走りしても怪しまれにくい。

慎蔵は伏見市内を通る東海道は計8回通っているので、街道についてはよく見知っているはず。

逃走には通ったことのない他の市中の道よりも良く知っている街道を選ぶと思われる。

 

④最早市中の店頭も既に戸を開くものある

店屋が並んでいる道を通っている。

 

⑤心急きに二町余り行く、

おそらく街道沿いに二町余り進む

 

⑥幸ひに商人体の者に逢ひ薩邸のある所を問ふに、是より先き一筋道にて三町余りなりと云ふ。即ち到る。

商人に聞いた場所から、伏見屋敷までは一本道で3町余りの距離。

これは大きなヒントになる。

 

以上の条件から、慎蔵の逃走経路を描いてみる。

 

緑は伏見宿を通る東海道

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候補は4つ考えられるが、

(A)は、毛利橋を渡り、濠川沿いに一本道だが、川岸に出張しているであろう捕吏に見つけられやすい。

(B)は、土橋を渡るが、材木納屋からは何度も道を折れ、なかなか複雑なルートを進む必要がある。

(C)は、割合単純な道だが、商人に出会ってから三町余りの距離の一筋道の条件に合わない。

(D)は、東海道の道を通り、道を急ぐ旅人のイメージに合う。商人との出会いが下板橋通りに近い鷹匠町辺りであれば、三町余りの距離の一筋道の条件にも合う。

 

結論としての寺田屋~材木納屋~薩摩藩伏見屋敷までの逃走ルートは以下の通り

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現在の地図では

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寺田屋からの逃走ルート3

寺田屋の裏の車町の通りから、村上町の材木納屋までの逃走ルートを考えてみたい。

まず幕末時の地図を確認する。(但し地図は、京都府紀伊郡伏見役場が後に作成) 右端(東)に「御役屋敷」と表示して伏見奉行所がみえる。 過書町や村上町は材木商いが活発で、貯木場など木場があったが、実際には地図には描かれていないことに注意。

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拡大図

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明治5年当時の図

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伏見の町は多くが戊辰戦争で戦火にあったが、幕末時と町割りはほとんど変わらない。 寺田屋は十五区と書かれた場所にあった。 なお、過書を含む十一区は、町制発布前のこの頃は江崎権兵衛が副年寄副区長を務めていた。 材木納屋の南側一帯は、因州鳥取藩伏見屋敷があった場所で、材木納屋の辺りは大坂の蔵屋敷などと同じように藩の御用商人に藩邸の一部の地所を貸していた場所と思われる。(なお、タイトルを別にして別途記述するが、材木納屋は鳥取藩ではなく、紀州藩の敷地にあったと考えている。)

逃走ルートに関して、龍馬は、 「町に出て見礼バ人壱人もなし。是幸と五町斗りも走りしに、・・・・、つひに横町にそれ込ミて、御国の新堀の様なる処に行て町の水門よりはひ込ミ、其家の裏より材木の上に上り寝たるに」と書簡に書き、

慎蔵は、「走る途中一寺あり此囲を飛越んとするに近傍多数探索するの様子有之、甚た切迫に付路を変し走出て川端の材木の貯積を見付け其の架際に両人共密に忍込み」と日記に綴る。

逃走した当事者二人の言はこれだけで、あとは当時の状況から推測するしかない。 この中でポイントは、

①寺

②近傍多数探索するの様子有之

③路を変じ

④横町にそれ込ミて

⑤御国の新堀のような処

⑥町の水門

⑦川端の材木貯積

 

①寺 車町から村上町の間には、寺は3つある。

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見えにくいが、天保年間の伏見の絵図の一部分で、寺田屋のあたりから、材木小屋までが入っている。 真ん中より上に黄色く3つ並んでいるのが、東から西へ、西岸寺(下油掛町)、西教寺(周防町)、興禅寺(周防町)である。

龍馬たち二人は、車町の通りに出てから、道を奉行所のある東とは反対の西へ進んだはずだ。 この道は京橋町でぶつかり先は行き止まりなので、右に曲がり南北の道を薩摩藩伏見屋敷のある北側にとることになる。 するとすぐに、下油掛町と周防町の町境にぶつかり先は行き止まりになる。(ただし、町境に在る駿河屋本店で確認すると、北に延びる細い道はあったという。)

ここで、下油掛町と周防町の町境より奉行所に近い東側にある油掛地蔵で有名な西岸寺は外ずしてもよい。 従って、龍馬たちが囲いを飛び越えようとした寺は、西教寺か興禅寺のどちらかになる。

          西教寺

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         興禅寺

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幕末時の敷地と同じとすれば、興禅寺は通りに面して門があり、高さは分らないが塀は単に飛び越えるのは無理があるかもしれない。 西教寺は門が通りから後退していて、通りに面しては柵などの囲いがあったのだろうか。 飛び越えはしなかったが、慎蔵のいう寺は西教寺のようだ。

 

②近傍多数探索するの様子有之とは、

今逃げている道の先方の濠川に架かる阿波橋の周りを警戒している捕り方を見つけたのかもしれない。 そこで道を転じ、西教寺と下油架町の駿河屋本店との間に在ったという北に延びる細い道を逃げたのではないだろうか。

慎蔵のいう③「路を変じ」と龍馬のいう④「横町にそれ込ミて」は同じかもしれない。 この細い道は、途中に田んぼや大きな池などはあるがどうやら大手筋まで続いていたらしい。 (この道の周りは、明治になって大きく拡張され、駿河屋本店が終駅で北へ続く日本初の電気鉄道が通る道となる。) 明治41年の改正図

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明治28年2月開業の日本初の電気鉄道が描かれている。七条停車場からの終点駅は駿河屋本店の前にできていた。 下大手町と過書町との間の濠川にかかる大手橋はまだない。 材木納屋のあった辺りは川が入り込み、まだ木場があるのが分る。 龍馬と慎蔵二人は、この細い道を下大手町まで走り大手筋に達し、道を左に西に取る。その先に材木納屋がある。

⑤御国の新堀のような処 ⑥町の水門 ⑦川端の材木貯積 もともとこのあたりは池が多くあり、濠川と繋がっているところは、材木を蓄積し、濠川を利用して運ぶのに便利な木場として利用されていた。 従って、材木が流れないように、水門も設けられていた。 あくまでも一つの仮説にすぎないが、以上の逃走ルートをまとめると以下のようになる。

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寺田屋からの逃走ルート2 材木納屋

龍馬と慎蔵が避難し隠れた材木納屋を確認したい。

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二人が隠れたという材木納屋があった辺りの写真。左側に大手橋(昭和15年11月竣工)が見える。 東京大学史料編纂所所蔵の写真。左側にも納屋がみえる

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龍馬は書簡に、 寺田屋の裏の住家を破ってから、「町に出て見礼バ人壱人もなし。是幸と五町斗りも走りしに、・・・・、つひに横町にそれ込ミて、御国の新堀の様なる処に行て町の水門よりはひ込ミ、其家の裏より材木の上に上り寝たるに」と書き、

三吉慎蔵は日記に、 「走る途中一寺あり此囲を飛越んとするに近傍多数探索するの様子有之、甚た切迫に付路を変し走出て川端の材木の貯積を見付け其の架際に両人共密に忍込み」と綴る。

司馬遼太郎寺田屋一件で三吉家にも取材し、逃走についても小説「竜馬がゆく」に書く。 その小説を参考にもした伏見の人吉田酔痴の「伏見史話」(昭和54年)に以下の記述がある。 「二人は捕吏からのがれ裏梯子から裏の家の塀を破り露地づたいに車町から阿波橋方面に向かって逃げた。途中周防町の西教寺の塀を飛び越え中に入ろうとすると御用提灯が激しく往来したので川岸の木材倉庫(江崎木材置場、現北川本家びん詰工場)に難をのがれた。・・・・。(この材木置場は明治の終り頃まで「坂本竜馬遭難の処」と記した木標が建っていたと古老はいっている)」 と、材木置き場について詳しい。 材木置場を江崎材木置場とし、現在の北川本家びん詰工場と特定し、明治末まで遭難場所を示す木標もあったという。ところがこの話が平成20年に裏付けられる。 土佐藩の京都藩邸史料が発見され、その中に伏見奉行所から京都所司代への報告書の写しの、土佐藩邸の控えが含まれていた。

その慶応2年1月24日当日の奉行所の報告書に、 「・・・、扨今朝巳後處々探索仕候処、当地村上町財木渡世、近江屋三郎兵衛財木納屋ヘ龍馬手疵を受候侭立入・・・」とあり、捕吏方は、二人が隠れた材木納屋を見つけ、材木納屋の持ち主も近江屋三郎兵衛と確認している。 この奉行所報告史料の存在によって、「伏見史話」の話が裏付けられ、二人が逃げ込んだ材木置き場が特定されたことになる。 村上町の土地台帳をみると、「伏見史話」に記述の江崎姓は、いくつか出現する。 江崎三郎兵衛は、364番地、367番地、368番地、369番地、370番地 江崎権兵衛は、393番地、396番地 このうち、370番地がまさに、現在も北川本家ビン工場を含む場所だ。

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最初の所有者は、大字村上に住所を置く江崎三郎兵衛であり、 明治26年12月1日に、大字過書の江崎権兵衛が買い取っている。 この年の5月27日に、江崎権兵衛が寺田屋旧蹟地といわれる南浜町262番地の地所を買い取ってもいることも注目してよいのだろう。 そして、この場所は、昭和12年3月12日に現北川本家が所有することになる。

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寺田屋からの逃走ルート1 寺田屋

坂本龍馬と三吉慎蔵が逃走した経路を調べている。
まずは出発点の寺田屋のその敷地について。 鳥羽伏見の戦いで焼失した寺田屋について、その敷地が実際に記録にあらわれるのは明治になってからなので、これから調べてみる。

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江崎権兵衛が明治26年5月27日に購入した旧寺田屋があったと思われる土地は、今の町名で南浜町262番地。 江崎は、この地所以外にも、明治27年6月1日に南浜町263番地と車町282番地(のち大正8年に車町281番地と合併)、明治27年11月26日に車町281番地(のち昭和4年に分筆)を、相次いで購入している。 南浜町262番地には、その入手目的でもあった、明治27年の33回忌に「薩藩九烈士遺蹟表」が建立され、息子・江崎権一の所有を経て、大正6年に伏見町に所有権が移転されている。

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南浜町263番地は、明治38年5月1日に七代目寺田伊助に所有権が移転している。

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この時同時に、車町281番地と車町282番地の地所も伊助の所有に帰している。

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この4つの番地の地所は繋がっており、ちょうど、現寺田屋の南の南浜町の通りと、北側の車町の通りとに挟まれて、北側は狭いが南北にほぼ長方形をしている.。

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今回はこの土地全てが旧寺田屋の敷地と仮定しておこう。
七代目寺田伊助は、「薩藩九烈士遺蹟表」の建つ南浜町262番地の敷地こそ入手できなかったが、明治38年に所有した3つの地番の土地は意外と広い。 但し、伊助の目的とする宿屋の建物としては、大きさから南浜の水路側の建物を使用せざるを得なかったようだ。
「薩藩九烈士遺蹟表」に刻まれた「建銅表于寺田屋遺址」の文言からすると、この「薩藩九烈士遺蹟表」の銅の碑を寺田屋の遺址に建てたとあり、旧寺田屋の在り場所が問題となるが、旧寺田屋が南浜町262、263番地に在ったとすれば、とりあえず文言との矛盾はない。 伊助は、寺田屋の建物と「薩藩九烈士遺蹟表」との一線から北側の車町の通りまでの敷地は、自宅と貸家などに利用していたのかもしれない。 今現在は、この地は、冨信株式会社(十四代寺田屋伊助の表札が架かる)、Yかわ氏、Sまた氏の住居(出入り口は南浜側)があり、また車町通り側ではレストラン大進亭の横の駐車場となっている。

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寺田屋からの逃走の際に、 龍馬は書簡で、「家の後ろなる屋そいをくぐり、後ろの家の雨戸を打ち破り・・・・・、其家の立具も何も引きはなし後の町に出んと心がけしに、その家随分と丈夫成る家にて中々破れ兼ねたり。両人して刀を以てさんざんに切破り、足にて踏破りなどして町に出て見礼バ」と書く。
慎蔵の日記には、「裏口の物置を切り抜け両家程の戸締りを切り破り挨拶して小路に遁れ出て」とある。 松村巌「坂本龍馬」によれば、 「屋後より身を躍らして地に下る。板塀ありて隣家と相界す。其隣家は寺田屋の貸家にして。医師藤田某の居る所と為し。」とある。
寺田屋の建物は北側にどこまで続いていたかは分からないが、「薩藩九烈士遺蹟表」を越えて建っていたとすると、医師藤田某の居た貸屋や他の家は、このレストランや駐車場の近くにあったに違いない。 龍馬と慎蔵は、町に出て一路、村上町の材木商の近江屋三郎兵衛がもつ材木納屋へと逃げることになる。

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