三井記念美術館は三井家伝来のおひな様のうち、三世代の夫人のおひな様を展示している。二世代目は、北三井家十一代高公の夫人・鋹子(としこ、1901-1976)のもの。鋹子は旧福井藩主・松平康荘の長女として明治34年(1902)3月9日に福井で生まれ、大正9年(1920)に高公のもとに嫁いだ。
鋹子夫人のひな人形は、日本橋十軒店の名工・二代永徳斎(1858-1928)作のものが中心。
内裏雛 二代永徳斎作 明治~大正時代
次郎左衛門雛二代永徳斎作 明治~大正時代
以上、「三井家のおひなさま」より
幕末の福井藩の果した役割は大きいが複雑でもある。
地理的には京都に近く、幕末の節目節目で重要な役割を演じ、家柄は家門でありながら時代の流れと共に特異な動きをし、戊辰戦争では西軍に組した。
人物には恵まれ、松平春嶽を始め、橋本左内、岡部豊後、鈴木主税、中根雪江、三岡八郎など人材を輩出した。
松平春嶽
春嶽の動きも極めて分りにくい。幕府最高職である政治総裁の時、松平容保を見込んで京都守護職に口説き落とした。
もともと公武合体主義者であったが、容保が上京し事態が益々紛糾し尊王攘夷が高まるにつれ春嶽の公武合体論が色あせてくると、容保を火中から救おうとはせずに政局の炎のなかから少しずつ身を引き、慶応2年8月には政権奉還論を唱え、戊辰戦争では結局、容保側の東軍を攻める側にまわった。
三岡八郎
福井藩と坂本龍馬とは関係が深い。
第1回目の福井行きは、文久3年4月16日。大久保一翁の春嶽宛て書簡を届ける。
第2回目は、神戸海軍塾の資金援助千両を求め、5月16日に出立。
このとき、龍馬は横井小楠の客寓にて三岡と同席、君が為の国歌を声調奇に高唱する。
君が為捨つる命は惜しまねど 心にかかる国の行く末
この少し前、同じ文久3年2月6日に長井雅楽が屠腹申し付けられ、そのときの辞世は
君が為死する命は惜しからず 只思はるる国の行く末
龍馬は、自分の思想に影響を与えた航海遠略策の長井の死を悼み、伝え聞いた辞世の句を声調妙に謡ったものと考えられる。
なお、福井藩から拝借した千両は、後、大坂勝塾の塾頭佐藤与之助が勝塾の金として勝海舟の友人松平大隈に預けたが、この中から、龍馬十両、高松太郎十両、近藤長次郎三十両を持ち出し、返却していない。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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