下関長府訪問 3日目

本日は、 朝方、壇ノ浦砲台跡と 赤間神宮を訪ね、長府博物館で展示を拝見した後、同館で5時間ほど資料調査を行った。
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万骨塔での山川健次郎霊石安置のため会津磐梯山の石の調達・制作に骨折り頂いた白虎隊の会の顧問である佐藤一男氏・石田明夫氏、会津支部鍋谷隆氏、京都支部長中村正氏と共に赤間神宮を訪ねた。 その途中、壇ノ浦砲台跡に寄った。 ここには、幕末の日本で最もポピュラーに使用された沿岸砲台用の大砲・端軸要塞砲のレプリカが備えられている。 この砲は、幕末の長府(今の下関市長府三島町)で砲を鋳造していた安尾家に伝わる、80ポンド端軸要塞砲の1/20模型をもとに復元している。 端軸要塞砲の基本設計は米国の技術だが、昨年訪れたサンフランシスコのフォートポイント要塞で拝見した大砲と同じ設計思想なのが分かる。        フォートポイント
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       壇ノ浦
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この砲の構造は、木製の砲架が上部と下部に分かれ、上部は仰角調整用、下部は旋回用である。 まず、下部前方の支点と旋回軸(写真の黒い部分)、後部のレールは地中に埋め固定する。下部は、前方端を地上に固定した旋回軸に差し込み、後部の車輪で旋回する。 上部は、頂部に砲耳が乗り、砲尾を仰角調整ネジで支えて仰角を変える。 前方下部の両側には車輪があるが、砲を前後に移動させるハンドルがつく。 端軸要塞砲は全て前装式で、発砲時に砲は反動し、砲架上部ごと、砲架下部の上を後座する。 砲架上部が後座する時の反動を吸収するため、砲架下部のレールは後方が少し上がった坂にしてある。砲架上部は後座時に、この坂を上がる。 端軸要塞砲では、後座した砲架上部は、車輪についたハンドルを砲員が回して復座させるが、復座時は坂になったレールを下ることになり、人力でも復座可能である。 (以上の項、藤井戦国史http://www.sengokushi.com/sengokushi/?p=973を参考にした) 写真のレプリカは、その意味で正確に復元されていて、5台あるうち一番奥と手前との両端2台が、実際の設置に近い。 赤間神宮では、まず安徳天皇阿弥陀寺陵との間にある、平家一門の墓にお参りした。
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後方の小さな石が、当時の墓石らしい。
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神宮では、水野直房宮司にお会いできた。
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小生は一度面識はあるが、いつお会いしたのか失念している。 8月に亡くなれた会津松平家13代保定氏に関し、あまり知られていない貴重な話を拝聴した。 農林中央金庫を定年退職後、人柄を見込まれ「靖国神社宮司に」と打診があった。 辞退したが「どうしても」と要請された。 3か月悩んだ末、「薩長が祀られ、賊軍とされた会津の戦死者が祀られていないのに、会津人としてお受けするわけにはいきません」と、最終的に断った。 以上の話は新聞で読んでいたのだが、実際は、 「賊軍とされた戦死者も靖国神社で祀るなら引き受ける」と条件を出したが、諾がないので断った、とのことだった。 靖国神社には、本来あるべき姿は何なのか、万骨塔の精神を学んでいただきたいものだ。 長府博物館では、古城館長自ら案内をいただき展示品の説明を拝聴した。 その後、さまざまな目的のある皆さんとお別れし、小生は資料調査に入った。 今回の調査目的は、三吉慎蔵と次女友子について、資料に基づき当時の関係者の調査をすること。 とりあえず今回の対象は、博物館が所蔵する桂弥一と乃木希典の資料が中心だが、全部で1,000点近くある。 但しすぐに、桂弥一資料はその年代から長門尊攘堂・万骨堂建設と開館に関するものだけで占められているため、調査対象時代の資料はないことが判明した。 乃木希典資料は400点ほどであるが、驚くことに、殆どが幼馴染で親友の桂弥一が寄贈したもの。 希典の子供時代から殉死までの、公私にわたる希典に関する内容で、このことからも希典と弥一の距離関係が良くわかる。 一応全点に目を通したが、残念ながら、本来の調査目的を満足する資料はない。 数点、本来の調査目的とは違うが、今まで知らなかった内容の資料にお目にかかった。 このような資料の発見が資料調査の醍醐味ではあるが、本来の調査については、次回、改めて視点を変え再調査に伺おうことにした。 以上で、2泊3日の下関長府の旅は終わる。 山川健次郎霊石安置にご協力いただいた長府博物館友の会始め会津・下関の方々、霊石除幕式前日祭の準備をしていただいた下関のみなさん、そして白虎隊の会のみなさん、有意義な日々を送らせていただきました。 有難うございます。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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