河島善蔵源由之といい、曽祖父にあたる。明治44年に59歳で没した。
この人物については、情報が少ない。
ただ、長男の精一が残した系図には、僅かだが以下の説明書きがある。
「(前略)
(由之の父・河島由路は)戊辰の役に彰義隊へ参加、上野山三枚橋黒門詰において湯島方面からの銃弾にて胸から背中に貫通重傷を負いたるため、当時拾六歳にて初陣したる由之と家臣とが夜陰に乗じて秘そかに屋敷内 (註:本郷湯島天神仲坂下に所在)に運び込み、手当を盡したるもその甲斐なく死去せり。
(中略)
由之は幕府の昌平校に入学せしも、徳川幕府崩潰に伴い同校は廃校となる。後に同校に籍を置いた者が相集いて、お茶の水聖堂境内に昌平会を作りたり。」
河島由之は、幕臣の父とともに彰義隊に参加し、上野戦争にて父を失う。家を継いだ由之には、母の鋹(とし)、弟由親(河島定蔵源由親)、妹の幸と駒の4名が残された。
父が戦死し幕府が崩壊した明治の世に16歳で投げ出されたわけで、生活が大変だったようにも思われるが、河島家は76俵5人扶持の小臣ながら、賄方であり役務上余録が多く蓄財があり、幕府崩壊後でも困らなかったと伝わる。
住んでいた屋敷は、上野に近い湯島天神の坂下にあり、良い水が出て、台所の床下に生簀があって常に生魚が遊泳していた。
天神坂下の河島家の屋敷と、隣の同朋町
上野戦争で負けたあと、何時かは不明だが、一家はこの屋敷を立ち退く。
立ち退いたあとには、隣の同朋町から水茶屋「水亀」を営業していた二代目鉄之助が移り住んで、魚屋「魚鉄」を開業する。職業柄、河島家と懇意にし、魚の仕入など取引があったのかもしれない。
いずれにしろ、生簀もあり、魚屋には格好の場所だったと容易に想像がつく。
同朋町から移って来た魚屋の末裔の説明版。 今でも同じ場所に住んでいる。
由之は、島崎家の津祢と結婚する。長男の精一が明治19年(1886)に誕生しているので由之30歳以後の頃かと思われる。
右より、長男精一・妻津祢、養女福子
その間には、妹たちも各々、幸は医師の早川家に、駒は御家人の山崎家に嫁がしている。
明治20年前後の精一が誕生した頃に河島一家がどこに住んでいたかは不明だが、明治30年頃の住所は分っている。
母の鋹は小杉家の出身だが、小杉家も幕臣一家であり、また同じ賄方でもあり河島家とは仲が良く、明治期にも互いに家族同士で行き来がある。
その小杉家当主直吉が本郷から駿府に移住していた明治30年頃に、小杉直吉の次男・吉也(鋹の甥)が学習院高等科に通うため本郷の河島由之の家に下宿していた。親元との通信のやり取りの書簡が小杉家に残っているが、「本郷区弓町二丁目十八番地河島由之気付」との書付によって、由之の住所が判明している。
また、由之の弟由親の側からの情報も手助けとなる。
弟由親には女子が3人いるが孰れも早世する。そのあと長男真が生まれる。長男真(由之の甥)の戸籍謄本をたまたま6年前に入手したのだが、それによると、由親は明治32年2月19日に下谷九西町三番地に住んでいて、河島真の本籍は「本郷弓町二丁目十八番地」となっている。従って、河島由之はまだこの頃本郷弓町に家があったとみてよいのだろう。
その後、一緒に暮らしていた母・鋹は、明治37年(1904)4月27日に、弟由親は明治40年(1907)4月22日に亡くなる。
二人は、由之によって、明暦の大火で有名な菩提寺の本郷本妙寺に葬られる。
左の二人が、河島由路・鋹夫妻、
右の二人は、由路の両親の思われる。調査中
右の二人が、由之の弟・由親夫妻
そして、本妙寺が明治43年に現在の巣鴨に移転した翌年、由之が没している。
菩提寺の本妙寺には由之の墓はないが、その理由を現在調べている。
10/10追記
森重さんのご教示により、東京公文書館から以下のことが判明しました。
〇明治5年 勧工寮へ出仕
〇明治7年 新潟師範学校へ(このとき下谷竹町生駒邸内居住)
〇明治10年 東京府師範分校教師から千葉県へ
〇明治21年 青森県収税属判任七等から、収税属判任七等
検税課勤務租税検査員へ
中級俸 収税属判任官七等
〇明治22年 南葛飾郡在勤
東京府収税部小松川出張所勤務
印紙類会計監督主任
〇明治23年 小松川出張所長心得
印紙類会計監督主任を免ず
〇明治24年 収税属之部 小松川間税分署長兼務
〇明治25年 島根県へ転任
〇明治38年 収入官吏任免
「 人気blogランキング 」 に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
幕末・明治時代(日本史)ランキング
絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
励みになりますので、できれば以下のバナーもどうぞ
にほんブログ村>